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#ネタバレ感想 #グリーンブック 黒に歩み寄る者、汝も黒とならん

確か昼の情報番組だったと思うが、公開前に本作の告知を見た。

そこで強烈に印象に残ったのが、ポイ捨てバックのくだりだった。
(トニーが車窓からドリンクの紙カップをポイ捨てしたのを、愕然としたシャーリーが咎め、車をバックさせて拾わせるところ)

陽気で粗野なトニー。
上品で口うるさいシャーリー。
この二人の人物像と関係性のイメージがあまりに鮮烈で、しかも単純にシーンとして面白かったからだ。

後に確認したところ、ウェブ用の映像には含まれていなかったので、ひょっとすると事前に見た人は多くないのかもしれない。

ともあれ私の気持ちとしては、泣くためではなく笑うために映画館に行ったのだ。

しかしこのくだり、実際にはもう一段深い意味合いがあった。

このドリンク、ケンタッキーフライドチキンのものなのである。
そして、この直前、同じシークェンスの中で、シャーリーはトニーに言われるまま 、フライドチキンを食べ、その骨をポイ捨てしていたのだ。

これは、非常に、非常に、印象的かつ重要なシーンだった。

作中でも少し触れられるが、 安くて腹に溜まるフライドチキンは、南部黒人のソウルフードだったらしい。
しかし、北部出身で上流階級のシャーリーは、そもそもそんな食い物があることを知りもしなかった。
衛生的じゃないとか、毛布が汚れるとか、お姫様みたいなことをグダグダ抜かして、当初は分け前に預かるのを拒否する。
白人のトニーが、喜んでバレルで食っているのに、だ。
シャーリーは、トニーの執拗な推しに屈して、そして恐らくトニーと何かを共有せんがために、ガマンしてそのおぞましい食い物を口にした。
骨をその辺に投げ捨てるという、粗野な風習に従ってもみた。
だがそれでもなお、紙カップを捨てることは、譲れる限度を超えていたのだ。

骨は土に還っても紙はならないだろって基準なんだろうが、それ自体はまあどうでもいい。
パーティ会場でタバコを吸い、芝生にポイ捨てすることには誰も何も言わないように、常識は個人・社会・時代によって劇的に変わるものだ。
(ちなみにこれはトニーだけでなく、シャーリーのトリオメンバー、つまり上流階級の人間もやる)
このシークェンスの意味は何か。
シャーリーはトニーに歩み寄ろうとしているが、それにも限度があること。
そしてそもそも、シャーリー自身が「黒人」に対して、「無理解」で「不寛容」だということだ。

シャーリーの「無理解」と「不寛容」が現れるのは、ここだけではない。

自分を放って賭け事に興じていたトニーに、シャーリーは「カネが欲しいなら言え」みたいなことを言う。
まあ、職務態度として問題があるのは事実だ。
だが、カネが欲しいんじゃなく勝つのが楽しいんだというトニーを、シャーリーは理解していない。
その上、一緒に賭け事をしていた連中を指して、「彼らは会場に入れないが、君は違う」とまで言う。
貧乏人と付き合うな、みたいな言い方はいかがなものか。
本来、トニーは貧乏人の仲間だというのに。

無人販売の屋台からこぼれ落ちた翡翠をちょろまかしたトニーに、シャーリーは戻すかカネを払えと言う。
いやもう仰る通りとしか言いようがないが、モノが欲しいんじゃなく上手く手に入れるのが快感なんだということを、彼はわかっていないし、わかるつもりもない。
トニーだって、地面に落ちていなければ無視しただろう。ギリギリ言い訳が利くからやらかしたのだ。
(ちなみに、トニーは戻すフリをして結局翡翠を持ち逃げしている。このくだりについては後程)

どっちが悪いかといえば間違いなくトニーが悪いが、これはそういう問題ではない。
無理解と不寛容だ。

本作は人種差別問題を描いているが、反人種差別がテーマではない。
本作のテーマはもっと普遍的なものだ。
それは、シャーリーとて逃れ得ていないものだ。

シャーリーは結構、物事をカネで解決したがるところがある。
大抵はその方が(トニーの「デタラメ」よりも)スマートでリーガルで、「品位」ある解決であることは確かだ。
シャーリーを助けるために警官を買収したトニーを、彼は非難した。
一方で、トニーをカネにしか興味のない男と思い込んで、「私を気遣うフリをするな」と言ったり、自分の元に縛り付けるために給料を上げようとしたりもする。
合法非合法の差こそあれ、シャーリーも買収行為をしようとしたのだ。それも、「相棒」であるはずのトニーに対して。

高邁な理想を持ち、厳しく自分を律しているはずのシャーリーが、なぜこのようなことをしたのか。
孤独だからだ。
白人でも、黒人でも、人間でもない」からだ。

彼は、事実白人ではない。黒人として、差別的な扱いを受けている。
しかし、黒人の生活もしていない。彼はフライドチキンも知らない。
トニーに「金持ちのあんたより俺の方がよっぽど『black』だ」と言われ、シャーリーは激高した。
「黒人は貧乏で粗野なもの」という決めつけが癇に障ったのもあると思う。
だが、それ以上に、図星だったのだろう。
南部で見た、ひたすら畑を耕し続けるだけの、理想を語る余裕などカケラもない黒人の生活を、彼は知らない。
だが、トニーと同じホテルに泊まれるわけでもない。

彼と同じようなバックグラウンドを持った者は、一人もいない。
彼は、誰とも(日本語で言うなら)「空気」を共有できない。
(この「空気」という言葉の感覚を、外国人と共有できないように)
彼に真の意味での同胞は、「言葉の通じる相手」はいない。
ゆえに、彼はカネに依存するのだろう。
「誰も空気を読んでくれない」のだから。
「人間でもない」とは、そういうことだ。

シャーリーには、家族もいない。
トニーから妻ドロレスへの手紙の添削は、シャーリーにしては極めて積極的な行動だった。
(戸田奈津子のせいで、最後にシャーリーが間男みたいになるが、そういうことではないはずだ。「And thank you for helping with the
letters.」をどう訳したら「手紙をありがとう」になるんだ!)
これは、既に離婚しているとはいえ、妻への愛情というものが、トニーとの間で唯一共有できるものだったからではないか。
(トニーが自ら考えたロマンチック文をシャーリーが驚き褒めるくだりは、大変微笑ましかった)

つまり。
シャーリーもまた、トニーを「属性」で見ているということだ。
「白人」も属性。
「貧乏人」も属性。
「妻子持ち」も属性。
本質的に、人種差別と何も変わらない。

トニーは、路肩に車を止めて野ションする際、車内に置き忘れたサイフを取りに来た。
盗まれることを警戒したのだ。
そのサイフの中身は誰が出したと思ってんだって話だが、トニーの知る黒人の多くはそういった連中なのだろう。
妻ひとりの家に入れたら、黒ナスの種を付けられるような者が実際いたのかもしれない。
黒人だからではなく、貧乏だからだとしてもだ。
それは、ある種の「生活の知恵」といえる。ヤられてからでは遅いのだ。
人間の本能は、最低限判断に足る情報があれば、結論に流れるようにできている。
一人一人と向き合って、個人を個別に理解・寛容しようとすれば、サバンナでは喰われるだけだ。
トニーがそうであるように、シャーリーも例外ではない。
喰い物にされない相手を、安心できる相手を求めている。

だから、彼はゲイなのだろう。
例のYMCAのシーンだ。
ちょっと脇道に逸れるが、あれはシャーリーがゲイであるという明示で間違いない。
YMCAがいわゆるハッテン場だったらしい、ということもそうだが。
警官はシャーリーを「おばさん」と呼ぶ。これは原語脚本によれば「Auntie」。一般的な意味はそのまま「叔母(伯母)」だが、ゲイ関連スラングとしては、年下の男と付き合ってるオッサンを指すらしい。
さらに脇道に逸れると、私はこの相手の男は男娼ではないかと思った。
確信に足る根拠は見つからなかったが、文脈からして、現代でいう「神待ち少女」くらいまでは余裕で想像の範疇だ。
そうなると、いつからゲイなのか、妻とセックスしてたのか、気になることも出てくるが、まあそれは措く。
その、ゲイ・インパクトに紛れがちだが、ここではとんでもないことが起こっている。
白人が、黒人と、同じシャワールームを使っていたのだ。
それも、同時に。
その後やることやるつもりなら当然ではあるが、他の描写と比べればその「奇跡」がわかる。
当時の同性愛に対する抑圧は現代の比ではなく、ゲイとして生きている者は秩序の敵対者とみなされ、また実際にそうである者も少なくなかったという。
シャーリーにとって、白も黒もなく接してくれた相手は、ゲイしかいなかったのではないか?
それが、「ゲイ」という属性を共有するゆえであったとしても。
恐らくシャーリーは、自分がゲイである以上に、白人とファックしていることを知られたくなかったのだと思う。
そんな浅ましい方法で、白人に受け入れられたがった自分を。

シャーリーも、「属性」で他者を差別することから逃れられない。
シャーリーも、「属性」による紐帯に安らぎを見出すことから逃れられない。
そして、自他の「属性」が互いへ影響することから逃れられない。

先程の警官の台詞だが、トニーに対して「your Auntie」と言っている。
つまり、トニーをシャーリーの「姪」と見なしているのだ。
ゲイの連れだから、ゲイだと思われたのだ。
当たり前だがトニーはストレートで、妻子持ちである。
だが、そういうことなのだ。
黒人と付き合うということは、そういうことなのだ。

それが明白に現れるのが、シャーリーをニガー呼ばわりする家族に対峙するトニーのくだりだ。
もはや、トニーは家族と価値観を共有できない。
「あんたより俺の方が黒人だ」と言ったトニーは、本当に「黒人」になってしまったのだ。
シャーリーとの友情によって。
そして、「差別主義者の家族」も、トニーの持つ属性だ。
シャーリーがトニーの友人であり続けるなら、多かれ少なかれ、トニーの家族とも関係しなければならない。
少なくとも、「ニガーのダチ」としてのトニーを、彼の周囲に晒すことは避けられない。

ゆえに、シャーリーは自ら、トニーとの関係を断とうとしたのだろう。
クリスマスを家族と過ごしたいと言ったトニーのために、シャーリーは自らハンドルを握り、毛布をかけて眠らせてやる。
そして、トニーが「家族に会っていってくれ」と引き留めるのを断り、家族のいない「城」へ帰っていく。
この時のトニーは、あのシャーリーが自分のためにそこまでしてくれたという喜びより、寝こけてる間に訪れた別れに困惑しているように見えた。
実際、シャーリーの意図はそういうことだと思う。
トニー自身はともかく、トニーの家族が自分を歓迎してくれるとは思えない。
だが、それが、掛け替えのないトニーの家族であり、彼の生きる世界なのだ。
そして、彼の世界では、自分は「ニガー」に他ならない。
トニーを彼の世界へ返さなければならない。
だから、彼の友人ではいられない。
そういうことなのだ。

しかし。
シャーリーには、帰る「家」がない。
彼に家族はいない。同胞もいない。
彼を抱きしめてくれる者は誰もいない。
誰も彼も、白も黒も、それぞれの家族が、同胞がいるのに。
「白人でもない、黒人でもない、人間でもない」
彼だけが孤独なのだ。
もはやシャーリーは、慣れ親しんだはずの孤独に耐えられなかった。
ゆえに彼は、もう一度、毛布を汚す覚悟をしたのだ。

トニーとシャーリーにとって幸運だったのは、ドロレスが「黒人」だったことだろう。
ある意味、本作における彼女は、必然的に破綻するはずだった二人の友情を繋ぎとめた、魔法使いのようなものだ。
またまた脇道に逸れるが、ドロレスは、トニーの手紙がシャーリー監修であることに気付いていたわりに、途中ドチャクソ涙ぐんでいた。
泣くだけ泣いてから「ウチの宿六にこんな手紙が書けるかぁ?」と気付いたのかもしれないし、帰ってきたトニーの「ニガー」への態度を見て察したのかもしれない。
だがあるいは、「合作」の向こうに、育まれつつある二人の友情を見て取ったためなのかもしれない。
シャーリーを抱き締めるドロレスからは、夫に素晴らしい経験をさせてくれた男への感謝が溢れていた。
もちろん、彼女自身にとっても喜ばしいことだったに違いない。
もう、こそこそとグラスを洗う必要はないのだから。

「属性」を無視して、まっさらな人間個人を理解できるなんて嘘っぱちだ。
なぜなら人間は、自分の世界の常識でしか、物事を見ることも考えることもできないからだ。
カップポイ捨てをこの世のこととは思えなかったシャーリーのように。
だが、人間は相手の「属性」も知ることができる。
自分の世界を広げることができる。
トニーが翡翠を戻したフリをしたことに、いつしかシャーリーは気付いていた。
「上手くやって手に入れるのが気持ちいいんだ」という価値観を理解したのだ。
その行為が犯罪だとか、悪だとか、そういうことはこの際どうでもいい。
そういう世界もあると、理解できることが尊いのだ。
それが、差別から最も遠いことなのだ。

なにも、一緒になってポイ捨てや窃盗まがいをする必要はない。
譲れないことは譲らなければいい。
(相手がバックしてくれるかもしれないし)
白人は黒人になれないし、黒人は白人になれない。
お姫様に下町の苦しみはわからない。
盗賊にお城の冷たさはわからない。
わたしはあなたではない。
だからこそ、「私のショパンも私だけのもの」なのだ。
だからこそ、黒く染まっても生きていけるのだ。

最後に、ドクのピアノの話をしよう。
やりきれない思いを叩きつけるかのような演奏シーンの迫力は、それだけで交通費分の元は取れた。
マハーシャラ・アリを眺めてるだけでチケット代もペイできた。
バーでのセッションでトニーへレスしまくる様は完全にアイドル。
今年のベストヒロインまである。

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