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甘露寺さんのおっぱいで泣いてしまった人への不当な批判を逆批判しつつ、蛇柱をDISる

このツイートが話題になっているのを見た。

多くは批判的な文脈でだ。

個人的には、このツイートに同意・共感するものではない

しかし、あまりに的外れ、理不尽、不当な批判が多すぎるように思う。
個人的に同意・共感はしないが、非難する気にも全くならない

この記事では、見かけた批判を逆批判しつつ、『鬼滅の刃』の表現にひそむ問題を浮き彫りにし、ついでに伊黒小芭内をDISりたいと思う。

ちなみに、文脈を追うと感情が昂ぶって筆が滑る予感しかしないので、このツイートの背景、発言者のパーソナリティについては、一切調べていない。
その必要もない。

後半にはアニメ化・単行本化されていない部分のネタバレがあります。

禰豆子が箱詰めされたのをスルーしている?

これは全く的外れな批判である。

元ツイートのポイントは、「女性が酷い目に遭わされている」といったことではなく、「女性キャラクターに男性に訴える性的魅力が付与される」ことだからだ。

確かに甘露寺には、「おっぱいと愛嬌」という、イカニモ男好きのする要素が付与されている。
しかも、胸元丸出しのあばずれ隊服もセットにしてだ。

作中の設定においても、甘露寺の隊服をあんなんにしたのは、甘露寺に不埒な性欲を向けるモブ男である。
蟲柱・胡蝶しのぶはその不埒なたくらみを見抜いて、普通の隊服を確保している。
比べると甘露寺は、事実、頭が悪くガードの緩い、男にオナネタを供給してしまう女に他ならない。
(ちなみに、甘露寺はちょくちょく馬鹿なせいでピンチに陥っている

このような表現を不快に感じる人がいるのは、容易く想像できることだろう。

『鬼滅の刃』を体の良い批判の的にしている?

ある意味その通りだ。

そもそも元ツイートは、『鬼滅の刃』が特別ひどいと言っているのではない。
いつもそうだ」。だから傷ついたと言っているのだ。
『鬼滅の刃』は、コップが溢れた最後の一滴であって、その前から元ツイートの人は表面張力状態だったわけだ。

そういう意味では、たまさか吊るし上げられる形になった『鬼滅の刃』にとっては災難といえるが、理解はできる話だろう。

しかし、「いつもそうだ」という認識には、疑問なしとしない。

『鬼滅の刃』は少年漫画であり、男性のために描かれている作品である。
そこに登場する女性キャラクターが、男性にとって魅力的に描かれることは、当然の成り行きだろう。

甘露寺以外にも、蟲柱・胡蝶しのぶ、その継子(後継者候補)・栗花落カナヲ、故人だがしのぶの姉にして花柱・胡蝶カナエという女剣士も登場する。
当然、その個性は甘露寺とは全く異なる。
まあ揃って巨乳ではあるし、禰豆子でさえパワーアップするとおっぱいもパワーアップするのだが、これはもう単に、作者が強くて巨乳な女性を好きなだけではないのだろうか?

おっぱいを小さく描きたい人もいれば、大きく描きたい人もいる。
そして、ホモ・サピエンスがおっぱいでセックスアピールする生物である以上、基本的に巨乳は美しいものなのだ。
僕が好きな子はアオイちゃんですけど。

話を戻す。
男性向けの作品には、確かに「おっぱいと愛嬌」な女性キャラクターが登場する率は高いだろう。
当たり前だ。
それ以外の、広大無辺なる領域を探せば、そういうデザインコンセプトではない作品も無数に見つかるだろう。
当たり前だ。

他のキャラクターにも、他の作品にも、他のジャンルにも目を向けることなく、「いつもそうだ」と嘆いているのであれば、それは愚かしいように思える。
しかし、男性にとって都合のいい女性観が、あまりに広く流布しているということを嘆くのであれば、それはおかしいとは思わない。
事実そうだと思う。

作者は女性である?

全く関係ない。

むしろ、女性である吾峠呼世晴先生ですら、このような男性優位の美的価値観に染まりきっているということが、非常な絶望をもたらしたとしてもおかしくはないだろう。

付け加えると、ワニ先生の性癖は巨乳よりなにより欠損であることは間違いないが、ことは女性キャラクターの造形の問題であり、これまた全く関係ない。

そして最大の問題は、そのような表現が、これほど広く受け入れられているということだろう。
吾峠先生も、その流布に一役買っているのだ。
ましてや『鬼滅の刃』は、一見してそのようなコンセプトの作品ではない。
これを「裏切り」のように感じるとすれば、それは、理解できる感性だと思える。

ただの巨乳ヘイトだろう?

そうかもしれないが、誰が言ったかより何を言ったかを問題にしたい。

甘露寺は柱。鬼殺隊最強クラスの剣士である。
戦う女性どころか、男含めても上から9人以内の実力者なのだ。

強くてかっこいい女性」、ハードでタフな女剣士として描かれても良かったはずだ。
しかし、甘露寺はあのようなキャラクターになっている。
最強の剣士が、わざわざあのような造形をされているのだ。

もちろん、『鬼滅の刃』ファンならば周知の通り、甘露寺は「おっぱいと愛嬌」だけの人物ではない。
しかし、「おっぱいと愛嬌」を必要とする立ち位置の人物であるかといえば、これは確かに疑問符がつく。

柱ならば、男に媚びるような造形でなくても良かった。
ヌードやロマンスが描かれなくても良かった。
強くてかっこいいだけのキャラクターでも良かった。

そういう表現を求めることも、それがないことに絶望するのも、その想いを表明するのも、自由として認められるべきだ。
同意するかどうかはともかく、バッシングするには当たらない。

「おっぱいと愛嬌」ではない甘露寺蜜璃の本質

ここからは、見た目で切り捨てるにはもったいない、甘露寺蜜璃の魅力をアピールしたい。

彼女の本質は、「おっぱいと愛嬌」のような記号性で語りうるものではないのだ。

甘露寺は、鬼殺隊に入った理由を、「添い遂げる殿方を見つけるため」と語る。
「自分より強くて守ってくれる人がいい」とも。
これを聞いた炭治郎はドン引きした
読者もドン引きした
婚活柱」とネタにされるようにもなった。
しかし、これはまだ、甘露寺の本質ではない。

柱としては珍しく、甘露寺には鬼との因縁がない。
あるのは、自己実現への――あるいは、『自分を余さず使い尽くす』という欲求である。

甘露寺はいわゆる超人体質、ミオスタチン異常肥大であることが示唆されている。
天与の肉体は彼女に怪力を与え、消費されるカロリーはけっこう人間離れした食欲を与え、食べ過ぎた桜餅は変な髪色を与えた

時は大正。
現代でもなければ、巴御前の時代でもない。
無惨汁こそ入っていないが、こんな女、世間的には「鬼」である。
女性として全く必要とされない方面にスペックを振り切った甘露寺には、結婚相手が見つからなかった。

思い詰めた甘露寺は、必要とされるために、自分を偽り、本性を抑え込もうとする。
怪力でもなく、大食らいでもない、(変な髪色ではある)「おっぱいと愛嬌」が取り柄の、男好きのする女になろうとする。

しかし、彼女はそこに安住できなかった。
偽りの幸福を、幸福とは思えなかった。
彼女は鬼殺隊のスカウトを受け、怪力で大食らいで変な髪色の剣士として、世のため人のため、鬼を討つ人生を選択する。

自分を解放して生きること。
嘘偽りない自分のまま、人の役に立つこと。
信頼され、認められ、「愛される」こと。

これが、甘露寺蜜璃という人物の、本質的な欲求である。

ゆえに彼女は、「生き残る」ことに重きを置いていない。
もちろん、男漁りの如き行為も行っていない。
結婚願望もあるにはあるのだろうが、明らかに最優先事項ではない。
彼女は、食事や温泉を楽しむのと全く矛盾なく、正義のために自分を使い尽くすことを満喫している。

怨恨や責任、義憤にさえ囚われず、これほど「我が侭」に戦う人物は、甘露寺の他に存在しない。
血まみれではあっても、これを素晴らしい人生と言わずしてなんと言おう。

許すまじ、伊黒小芭内

しかし、そもそも真に問題にすべきは、甘露寺本人の描写ではないのだ。 

それは、甘露寺に想いを寄せる男、蛇柱・伊黒小芭内である。 

これは、主人公である炭治郎と同期の少女剣士カナヲのそれを除けば、現在の時間軸で展開する、ほぼ唯一のロマンスといえる。
ちなみに、どちらも片想いである。
そして、カナヲの極めて淡く幼い恋心に比べ、伊黒のそれは、よりくっきりとした異性愛として描かれる。

それは、いい。
甘露寺に接近する男を排除しようとするのは、格好悪いし組織の幹部としてもどうかと思うが、それは伊黒がダサいだけなので構わない。
敵本拠地で甘露寺との共闘を喜ぶのは、ボンバーをご存じでない!?と言いたくなるが、まだ許せる。
鳴女アスレチックで遊んでるように見えたのは、ちゃんとした意味があったし。

しかし、戦術上の要請を超えて、最優先に甘露寺を守ろうとするのはやりすぎだ。

これは、半天狗戦で炭治郎たちが甘露寺を守ったのとは、全く意味が異なる。
あの場において甘露寺は、味方側の圧倒的な最大戦力だった。
甘露寺を守ったのは、勝つために、その力を必要としたからだ
そして甘露寺は実際、半天狗のほぼ全戦力といえる分身体・憎珀天を、炭治郎たちが本体を討つまで、単騎で足止めし続けた。
このポジションは明らかに、彼女以外の誰にもこなせなかっただろう。

半天狗は上弦の肆、上から1+4番目に強い敵である。
作中、上弦の鬼は、柱三人に匹敵すると言われている。
甘露寺はその力量を信頼され、無茶振りをもらい、(ブーストはあれ)見事に応えてのけたのだ。

対して伊黒には、甘露寺の力量に対する信頼の態度はない。
甘露寺を守ろうとするのは、諸悪の根源たる無惨を討つためではなく、愛する女に先立たれたくないためである。

甘露寺は、自分の余命が少ないことを知りながら、残された時間を穏やかに過ごすのではなく、鬼との戦いに捧げた。
当たり前のように、である。
死の覚悟など、彼女はとうに済ませている。

伊黒には伊黒の事情があるのだが、それでも、甘露寺の覚悟を侮辱していると言わざるを得ない。
当然、甘露寺はそれを拒絶するのだが、あそこはもっと怒ってもよかったと思う。

「何人死のうが、誰かが無惨を討てばいい」

この覚悟を固めていないのは、決戦に参じた鬼殺隊員の中でも、伊黒と村田くらいだ。
その村田だって、自分と同格以上の剣士を庇うような真似は働いていない。

だから僕は、『鬼滅の刃』の人物描写で、唯一、伊黒だけが好きになれない。
(悪役が憎たらしいのは別としてだ。ご多分に漏れず、僕も無惨は大好きで、かつ、惨たらしく死んでほしいと思っている)

しかし、『鬼滅の刃』に対するこの種の評価が全く当てにならないのは、ファンならよく知っていることだろう。
甘露寺だって、初登場時にはクソサイコビッチとしか思えなかった。
完全に掘り下げが終わったはずの実弥が、ぎゆたそとプリキュアやったりしたので、まだ油断はできない。

甘露寺への本当の誠意を見せてくれることを、最後まで期待している。

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