他者に掛ける熱量と、その重さのはなし

目次

  1. はじめに

  2. よく言われる「優しさ」みたいなものについて

  3. 優しさと表裏の関係にある「重さ」について

  4. 時たま発生する「リセット癖」のある人について

  5. まとめと自己分析みたいなもの

  6. 最後に

1.はじめに

今回のnoteはちょいちょい自分の中で疑問にあがる「優しさってなんなん」みたいなところから書き始めている。
これを書いている2022年12月末、保護猫のレンタル業務がバチクソに批判されている。猫の命を粗末に扱うな!みたいなのが散見される一方、一旦業者側のように"批判しても良い"としたところにはちょっと批判では括れないレベルで容赦のない反応が飛んでくる。
また一方、先日FFの方が「私の欠点を教えて」と匿名でのアドバイスを募集した所、とんでもない言葉が飛んできていた。個人的にはひどくない???みたいのも結構あった。なんだ笑顔が汚いって。
でも怒られるうちが華、みたいな意見もあって。そんなこんなを考えていくうちに「優しさってなんなん?」という話に行きつく。ちょっと長くなるかもだけど、年末時間が空いた人とかは読んでみてほしい。

2.よく言われる「優しさ」みたいなものについて


「優しいですね」と言われることがちょくちょくある。「優しい」は他に褒めるところがない人への云々・・・って話もあるけどここでは置いといて。何か困っている人がいて、それを助けることが優しいことなのか?みたいな感想があり。
例えば道端で体調悪そうな人を見掛けて大丈夫ですか?と声を掛け、肩を貸して駅まで連れていくなどする。これは優しいとされる。
基本的に他者の望むことをするのが優しさだけど、例えば薬物使用者の友人がいて、その人がそれで幸せを感じている時に薬物を止めろ!というのがあるとする。これは本人が困っていないように見えるが、優しさに判定されることが多そうだ。
この辺はどう判断されるのだろうか。この辺の仕組みには「その行為で他者の幸せの総量を増加させる」行いが評価されてる、みたいな感じだと説明がつきそうである。薬物中毒を止めた方がその人の幸せ総量は高くなる、というのを見越しているのだ。そう考えると、こんどは幸せというものの話になっていく。

3.優しさと表裏の関係にある「重さ」について

幸せの話から。優しさが「他者の幸せの総量を増加させる行為」に紐づく評価であるなら、その行為を行うには対象の幸せがどういったことで増加するのかを知っていなくてはならない。
これは簡単なものでも一定確率で裏目を引くことがある。例えば叩かれている人がいてそれを止めた時、もしその人が叩かれることに幸福を感じる人間であればそれは逆効果になるということである。町の往来で荷物を持ってあげるだけでも、もしかしたら体力づくりが主な理由かもしれない。実体験として、自分の目の前で自転車で転倒した人がいたが、近づいて大丈夫ですか?と支えること自体コロナ禍ではリスクになってしまう。それが頭をよぎって声を掛けることしかできなかった。

ということが考えられるが、大体幸福の方向性は近い方向を向いている。常識ってそういうものだ。しかし、この常識から出る他者への優しさは、しばしば「重い」ものとして認識されてしまう。類型としてはお節介焼きや、テイカーの話に繋がる。
強い規範、例えば「人は伴侶を得て家庭を持った方が幸せである」や、「コミュニティの一員になってそこで奉仕したりされたりして生きていくのは素晴らしいこと」みたいなのがしばしばでてくる。当然のようにその優しさは悪意がない。しかし、幸せの方向性が真逆になっていたりすると、それはとても重く感じる。親身になってリソースを割かれているほど、重くなる。
また、それが無償の善意であればまだいいが、テイカーと呼ばれる人間はここにギブアンドテイクの関係を持ってくる。優しさを行使する人とされる人の両者の方向性があっているならまだしも、あってない場合には重く幸せにならない提案をした挙句、「これだけ”してあげた”のに」みたいな不満を抱かれる。割とどうしようもない。そういう場合ははっきりと方向性が異なると告げるか、立ち去るしかないのだ。

4.時たま発生する「リセット癖」のある人について

話がすこし変わる。リセット癖のある人についてだ。
突然連絡が取れなくなる、そんな友人・知人はいないだろうか。ネットのSNSはそもそもそういう運用は珍しいものでもない。その人にとって貴方は継続した関係を築く価値がないと判断されただけである。そういった場合はお達者で!ぐらいの気持ちでいた方が健全かな、とも思う。
中には電話番号も繋がらなくなったり、その人の親も生存が確認できなくなったりする人も居る。自分は大学の先輩がそうで、高専からだからなんだかんだ8年弱一緒に遊んだ先輩は姿を消した。
その時一緒に遊んだ友人の一人が結婚式を挙げた時にも、来てほしかったなみたいな話をしたのを覚えている。
そういった人がその「重さ」に嫌気がさしてリセットをするのかは分からない。実際あまり多くない気はする。でもこの時、自分がその人にどれだけその重さを掛けていたのか、は結構考えてしまう。人付き合いが重かったのか、嫌われていたのか、逆に優しくない、冷たいと思われていたのか。

5.まとめと自己分析みたいなもの


長くなってしまったが、簡単にまとめる。
・優しさとは、他人の幸福の総量を上げる行為と定義する
・優しさには裏目がある
・あんまり裏目は常識的に引かないが、中にはなりがちな事柄もあり。その場合優しさはお節介だし、「やってあげたのに」と恨みにもなる。これらは重さとして感じる人もいる。
・人間関係や環境を一旦すべて外すリセット癖のある人がいる
・リセットは重さでも発生することがあるが、それはすべてではない

まとめると上記みたいなことかなと思う。ここからは自分の話。
私は大体の事柄についてその人の主体性を尊重する。はた目からみてその人が幸せにならないような選択(経済的に困窮する等)を行った際についても、その人の選択に意思があるのならその選択を肯定する。アドバイスもあんまりしない。事前条件が異なる事柄について特にいう事はないからだ。
こういうスタンスは、自分が他者へ向けるその重さを極度に恐れているという証左だと感じている。確かにその面はある。責任感がない、と言ってもいいかもしれない。そういったことを考えると、自分は優しくない、と改めて自認する。
他方重さを感じない優しさは気楽さという価値を持つと思っていて。そういった面は今後も継続していこうと考えている。

6.終わりに

そんなこんな年末に、優しさについてこねくり回した文書でした。皆様には今年もたまにチョロっと書くnote読んでいただいたりツイッターで絡んでいただき感謝いたします。来年も大体こんな感じでやっていくので、よろしくお願いいたします。
来年はライブとかも行きたい!そんな目標で!

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