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曇天

ひたひたと雨のなか歩いていると、公園の傍を通りかかった。いつもの帰路なのだけれども、桜が咲いていることを初めて気付いた。普段はもっと頭が回って、他のことを考えているのだろう。倦んでぼんやりと歩いていた今日だからこそ、見つけることが出来たかもしれない。

とはいっても、街灯の光は青みが強く、桜と分かるのは花びらの形状と季節からの推測で。
淡い桃色は失せ、ただ白黒のシルエットが存在感を放っていた。

濃霧のような霧雨のような降り方。大雨の時より、地面の湿った少しの生臭さと土や草木の埃っぽい匂いが湿気と共に充満している。湿った衣服と併せて、倦んでいる精神を感情の器の底に張り付かせるには十分な環境だった。

さて、倦んでいるのは何故だろう。種々の原因が散らばっているが、行き着く先は「人に伝える」ということな部分で共通している。
誰かが何かを伝える時の伝達ゲーム。性愛でも仕事でもなんでも、言語チャンネルを合わせ定義をすり合わせて出力し、受け取るボールを加工する。そうやって伝えていく。この努力が欠ける場合や、怠る場合が発生する。一々確認するなという人も居る。

立場に強弱があれば解釈の優位性はそこで決まってしまう事も多い。
「そんな意味で言ったのではない」
「普通この文意で捉えるはず」
そうやって発生した解釈の優位性は、責の所在として発露していく。

そうなってしまった場合のやりきれなさはどこへ行くのだろう。
勿論見られたいように見られるなんてことは稀なのだけど。

そんなのが、たくさん転がっている。そうした責は烙印になることもある。表向きは注意喚起として。裏向きには見えない支配として。

めんどくさいねぇ。桜のようにはいかないよ。

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