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ちゃんと考える転売問題


レポートにして送ったら評価良くなかったやつです。

転売問題を考えるにあたって

商品の売り手には、任意の価格を設定する自由があり、買い手には、その価格で購入するか否かを決定する自由がある。これは近代司法の大原則である。

しかし、(高額転売をも許しうる)価格決定の自由が社会に広く受け入れられた考え方であるかといえば、そうではない。

例えば、2019年に制定された「特定興行入場券の不正転売の禁止等による興行入場券の適正な流通の確保に関する法律」(通称 : チケット不正転売禁止法)やマスク・アルコール消毒製品の高額転売を禁じた「国民生活安定緊急措置法施行令」が成立したことからも、国民は、一定の条件下で価格統制に賛同し得る。

加えて、法的規制に至っていない領域においてすら、価格決定の自由が社会的に糾弾されることもある。ポケモンカードを例に挙げれば、その転売は法的には規制されていないにも関わらず「こどもがカードを欲しがっているのに」「子供たちがかわいそうなので取り締まるべき」という声が大きい。けれども、価格決定メカニズムにおいて、本来その商品が帰属すべきもの、というカテゴリーは存在しない。

こうした、社会通念(取り締まり派)と講学上の原則(自由でしょ派)のギャップをいかにして解消するのか、その解決策はまだ発見されていない。
ただ、この記事を通じて「各時代に、どのような方策が採られてきたのか」を一部理解していただければ幸いである。

ローマ法における公正価格論

講学上は価格決定の自由が認められているにも関わらず、社会構成員が異なる規範意識を持っている、という問題は、近代以降の産物ではない。
すでに、三世紀の古代ローマにおいて、法学者は価格決定の自由があることを強調していた。

ところが、軍人皇帝ディオクレティアヌスとマキシミアヌスは、これを覆す勅法を発した。

その法の内容を、土地の売買契約を例に説明しよう。あなたはある土地を100万円で買ったとする。ただし、その土地は、実際には300万円の価値がある土地であった。この場合、あなたは幸運にも土地を安く買えたことになる。ここで勅法の登場である。この勅法の下では、あなたは300万円-100万円の200万円を追加支払わなければならない。つまり「過度に安く買って得した分だけ追加で支払わなければならない」のである。

法の内容を記憶する必要はないが、三世紀の古代ローマにおいては、価格決定の自由という講学上の原則と、勅法の間にギャップが存在したことを認識しておいてほしい。また、勅法によって「罰されるべき不公正な取引」なるものが規定されていたことにも注目すべきである。

近世自然法論における公正価格論

グロチウス

グロチウスは『戦争と平和の法』の中で価格についても言及しており、当該書籍における議論を整理すると、以下のようになる。

グロチウスにおいては、価格と契約との関係について、三つの異なる次元が見いだされる。理性的に考えたとき、すなわち自然法に従うときは、給付の価値と反対給付の価値とが、完全に均衡していなければならない。しかし、さまざまな民族間の合意によれば、詐欺などの事情がない限り、価格のみを理由にして、相手方に契約の是正を請求することはできない。とはいえ、各国には立法裁量があるので、ある地域内において自然法へ回帰することは許される。その部分的な回帰の一例が、ローマ法の莫大損害(さきほど土地の例で説明したもの)である。

グロチウスは、価値の均衡という前提から出発しつつも、法的な価格統制については、各国の裁量に委ねたのである。

プーフェンドルフ

プーフェンドルフは、グロチウスの次の世代に属する自然法論者であり、国際法の講座をヨーロッパで初めて得た人物でもある。

プーフェンドルフとグロチウスの間における類似点・相違点を概観するため、プーフェンドルフの議論をふたつ紹介したい。

第一に、ローマ法の莫大損害は、自然法上のルールではない。なぜなら、公正価格の半額を超える不均衡という制限(ex. 200万円超えの土地を100万円で譲り受けると追加で支払う必要生じる)は、自然法にはないからである。自然法は、少なくとも道徳レベルでは、乖離幅と無関係に、価値の不平等の修正を命じている。ただし、これを裁判などで請求することができるかどうかは、別問題である。この点は、グロチウスと一致している。

第二に、自然法または万民法上も、価値の不均衡が著しいときは、相手方に是正を請求することができる。これは、グロチウスと異なる主張である。なぜなら、グロチウスは、自然法上のルールは道徳の問題であると割り切っており、万民法にいたっては、価値の不均衡の是正が求められていないと考えていたからである。

スミスの公正価格論

問題の提起

スミスは公正価格という言葉を知らなかったから使わなかったのではなく、知っていたがあえて使わなかったのだとする。
そこで次に問題となるのは、この概念が自身の理論にそぐわなかったから、スミスはこれを使わなかったのか、それとも、スミスはこの言葉を表面上使わなかっただけで、公正価格に類似する考えは彼の体系の中に残っていたのかである。

スミスの自然価格と先行研究

そこで、スミスの自然価格を概観したのち、この自然価格が公正価格と結びつきうるのか否かを検討する。

まず、スミスがいうところの自然価格は、市場で普通売られている価格、すなわち市場価格(market price)とは別物である。ここで、プーシェンドルフが考える自然価格(公正価格)は市場価格のようなものであるため、スミスのいう自然価格は公正価格と無関係である、という解釈が登場する。

ボウリー(1973)によれば、スミスの自然価格は純粋に経済的な概念であり、倫理的要素を含まない。これに対して、ヤング(1985)は、スミスの自然価格と公正価格との関係を、肯定的に解している。

ヤングは、スミスの自然価格が正義を内在させており、公正価格と比較可能であると主張する。そして、自然価格は、スミスがプーフェンドルフから影響を受けた一例であると理解されることになる。しかし、プーフェンドルフが自然価格ないし公正価格という言葉で分析対象としていたのは、個々の契約で合意された価格と公正価格とが乖離したとき、その契約を解消したり代金調整を請求したりすることができるのか否かであった。スミスはそのような調整について、まったく言及していない。これらのことから、ヤングの主張には疑問が生じる。

スミスの自然価格と正義との関係

ヤングの主張をより内在的に検証するために、スミスの正義概念を検討しよう。公正価格は、伝統的に、正義と結びつけられてきた。

『道徳感情論』において繰り返し強調される正義の形式は、その厳密性と正確性である。

正義は、スミスの言うように、厳密で正確な徳であると仮定しよう。すると、公正価格がスミスの体系内で成立するためには、価格について厳密かつ正確なルールが確立可能でなければならない。

しかし、価格については厳密かつ正確なルールが確立可能ではない。このことは、同じ場所で同種の労働に対して支払われる労働の価格が、職場によって異なることからも明らかである。

このように、スミスの道徳体系(厳密かつ正確なルールが確立可能)と価格理論(厳密かつ正確なルールが確立不可能)とを整合的に理解するならば、公正価格という概念はそもそも成立しないのである。したがって、たとえスミスがプーフェンドルフの自然価格から影響を受けているとしても、ヤングのように強い影響関係を認めることは妥当ではない。

商人道徳と公平な観察者

では、ボウリ―の主張が正しく、自然価格という概念はいかなる倫理的要素も含まれないのであろうか。ここで注意しなければならないのは、スミスが正義とそれ以外の道徳とを区別していることである。スミスの道徳体系が公正価格を許容しないことは、自然価格が倫理的要素を含まないことを意味しない。なぜなら、正義以外の道徳は、厳密かつ正確なルールではないので、賃金、利潤及び地代の自然率に対する適用の余地が残るからである。

スミスは、商人道徳を高く評価していた。商業が活発な地域では、暴利は商人道徳によっておのずと抑制される。これがスミスの前提であった。したがって、個別取引における価格と自然価格または市場価格との乖離は、少なくとも商人道徳が維持されている地域では、深刻な問題とならないのである。むしろそのような地域では、自然価格や市場価格が、商人にとってなんらかの道徳的規準となるであろう。

ボウリーの主張に対しては、もうひとつ、否定的な根拠が存在する。それは、スミスが倫理的な観点から、高賃金を支持していた、という点である。スミスは高賃金を支持する理由をふたつ挙げており、ひとつは社会の幸福の増進(直接的功利主義)、もうひとつは労働生産物に対する分け前の衡平であった。

では、商人道徳にもとづいて価格が調整される場合、それはどのようなプロセスで行われるのであろうか。スミスは『道徳感情論』において、公平な観察者というアイデアを提唱している。商人道徳も、公平な観察者の視点から考察されるはずである。この公平な観察者の前提になるのが、他者に対する人間の同感能力である。

他人の感情や行為の適切性を判断する心の作用を、スミスは『同感』と呼んだ。道徳的な規準となる同感は、第三者的な立場に立つ公平な観察者の同感であるとされる。

公平な観察者の同感にもとづく価格調整プロセスは、以下のようになろう。商人は、取引の相手が素人や困窮者であると認識したとき、物を高く売りつけたり、安く買いたたいたりする衝動に駆られるかもしれない。しかし、この商人は、公平な観察者の立場に立って、自分がそのようなことをすれば、どのような感情を抱かれるかを考察する。公平な観察者は、相手の無知や困窮に付け込んだ値づけについて、これを否認するであろう。つまり、自分が社会的に非難されることを認識するだろう。また、そのような値づけをした商人は、次から商売の相手として選ばれないリスクを負う。スミスが部分的に依拠した功利主義の観点からしても、このような値付けは控えられることになろう。

したがって、相手の無知や困窮に乗じて、より多くの利益を得る選択肢と、それでも相手に市場価格または自然価格を提示して販売する選択肢とが与えられた時、商人は、後者を選択することになるのである。現代日本においては、希望小売価格も、参照先となるかもしれない。このようなプロセスを経て合意された価格は、正義・司法によって介入された価格ではないから、公正価格ではない。しかし、契約当事者の道徳感情にもとづいて選択された価格であるから、倫理的な価格の一種である。

結論

インターネットの方々(の一部)が考えているほど、転売問題というものは単純ではない。


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