なぜ日本の天皇は続いたのか考える(結論は出ない)

なぜ日本の天皇は続いたのか考える(結論は出ない)

catatsuy

なぜ日本の天皇が続いたのか、よく考えることがあるのだが自分には全く分からない。歴史を紐解くと危機的状況になったことは何度かあるのだが、奇跡的な展開によりすべて回避できている。結果論としては全部回避できたからここまで続いてきたとも言えるのだが、なぜそのような結果になったのか、私には説明できない。もしかしたら特に理由などないのかもしれないとも思う。

今回は歴史を紐解き、天皇が乗っ取られそうになったが回避できた事例をいくつか書いてみる。特に結論は出ないが、天皇が続いてきたのは必然ではないことが少しは理解してもらえると思う。

蘇我入鹿と古代の豪族と大王の関係

まず最初に議論したいのは日本書紀に天皇の座を奪おうとしたと明記されている蘇我入鹿と古代の豪族と大王の関係だ。

日本書紀の古代の天皇に関する記述は年代がずれているが、雄略天皇からはほぼ正しいと見られている。

その雄略天皇の即位が460年頃であり、蘇我入鹿が殺された645年からは200年ほどだ。今でこそ皇族は2000年近く続く世界で一番長く続く王族だが、当時はもちろんそうではなかった。また中国の易姓革命を考えれば自分たちの一族が天皇になれると思っても不思議ではないし、当然蘇我氏を始め大和朝廷の人間は中国の易姓革命のことを知っていたはずだ。

易姓革命について軽く解説をする。中国では徳を失った皇帝から皇帝の座を奪っていいと考えられていた。皇帝になるのに血筋も関係ないことは農民出身の漢の劉邦などを挙げるまでもないだろう。中国では次の王朝が前の王朝についての歴史を書き残すことが一般的なので、大体の歴史書は『最初は徳のある皇帝が政治を行ったが、最後の皇帝には徳がなかった。そのため我々が皇帝の座を奪った』という流れになる。そのため最後の皇帝は暴君として記述される。暴君として著名なのは夏の桀王と殷の紂王だ。どちらもその王朝の最後の皇帝である。

大和朝廷の人間が中国について熟知していたであろうことは、百済経由の仏教伝来や、天武天皇が自身を劉邦になぞらえていたことや、唐の律令を参考した大宝律令、唐の長安城を参考にした平城京など例を挙げればキリがない。

ここで一度神武天皇の話をしたい。日本書紀の記述を読めば、神武天皇よりも先に高天原から降臨し大和を治めていた饒速日命が登場する。饒速日命の子孫は物部氏として大和朝廷で活躍するが、日本書紀の記述だけを考えても物部氏には本来正統性があったと考えられる。大和朝廷の大王が物部氏で現在の皇族が一豪族として活躍した未来もあり得たはずだ。つまり当時の状況を考えると現在の皇族である大王家が絶対的なものだったかは疑問だ。

蘇我氏は日本書紀の記述によれば五代の天皇に仕えた忠臣である武内宿禰の子孫ということになっている。武内宿禰自体は孝元天皇の子孫で、後世の言い方をすれば臣籍降下をした一族と言える。

この日本書紀の記述を信じないにしても、蘇我氏は由緒のある一族であり、中国の易姓革命を考えれば蘇我氏が大王になれないと決めつけることはできない。饒速日命に関する記述も皇族の正統性に関わる話で、当時の人間は物部氏も正統な一族であったことを知っていたと考えられる。

また当時既に応神天皇の五世の孫の継体天皇が即位した後だ。聖徳太子は継体天皇のひ孫にあたる。正統性が怪しい皇族が天皇になれたという実例がまだ記憶に新しい時代だ。

なお蘇我入鹿が本当に大王になろうとしたのかについては諸説ある。しかし今回議論したいのは日本書紀にそういう記述があること自体で、つまり大王の座を奪おうとする一族がいてもおかしくないとされている点だ。

その後の歴史がどうなったのかを書くと、蘇我入鹿は大化改新により中大兄皇子に殺される。その後にその中大兄皇子が白村江の戦いに負けて、日本は唐・新羅との関係が悪化する。その後天智天皇(中大兄皇子)が亡くなった後に発生した壬申の乱で弟の天武天皇が即位する、という歴史を歩む。

天武天皇と天智天皇は実は兄弟ではなく、ここで易姓革命がなされたとする説がある。しかしこの説は定説とはなっていないので今回は議論しない。ただ言及しておきたい点がある。天武天皇は自分自身を漢の劉邦になぞらえて赤い旗を愛用していた。どこまで意識していたかは不明だが、ある程度は易姓革命のことを意識していたはずだ。ちなみに天武天皇の血統は称徳天皇で途絶え、その後天皇になった光仁天皇は天智天皇の子孫だ。光仁天皇の子孫が現在の天皇であるため、ここで易姓革命が起こっていたとしても現在の皇族は天武天皇の子孫ではない。この件は次の章でまた書く。

血統を断絶させた持統天皇の行動と称徳天皇・弓削道鏡の話

弓削道鏡は戦前は天皇を乗っ取ろうとした大悪人とされてきた。弓削道鏡は未婚の女帝であった称徳天皇との愛人であったと(正史に記述されていないにも関わらず)古来信じられてきた。

これについては私はかなり異論がある。奈良時代後期の仏教の戒律は風紀が乱れた後世とは違い、まだかなり厳しかったはずで、仏僧であった道鏡が戒律違反である愛人を作ったとは思えない。私は女帝であり、自分の血筋が断絶することが確定していた称徳天皇が、優秀な弓削道鏡に中国で聖人と呼ばれた堯舜伝説に倣い、天皇の地位を譲位しようとしたのだと思う。しかしこれは今となっては分からないことなので今回はここまでとしたい。

ここでは少し時代を遡り、そもそもなぜ血統が断絶したのか、その後にどうなったのかを中心に議論をしたい。

壬申の乱で天武天皇が勝利したことは前述した。天智天皇と天武天皇が本当に兄弟であるかどうかも疑問があることも記述したが、今回は天武天皇の後継者に関する議論だけをしたい。

天武天皇には妃が多くおり、息子も多くいた。その息子も優秀な人が多かった。壬申の乱で活躍した高市皇子や、頭も武芸も優れた大津皇子、日本書紀の編纂のリーダーをした舎人親王などが挙げられる。当時は母親の身分も大事であったことを考えても、母親が天智天皇の娘だった大津皇子は申し分ない血筋だ。高市皇子は母親の身分が低かったとされるが太政大臣に任命もされていたし、息子の長屋王も歴史上非常に活躍している。非常に優秀で健康な息子に恵まれた天皇と言えるだろう。その天武天皇の血統がなぜ絶えてしまったのか。それは持統天皇の責任だと私は考えているので持統天皇の話を書く。

持統天皇は天武天皇の妻であり、天智天皇の娘である。天智天皇の娘の内、なんと4人が天武天皇の妻になっており、その内の一人だった。

持統天皇は自分の息子である草壁皇子を天皇にするため奔走した。そのためには自分の姉の息子である大津皇子が最大のライバルであったが、大津皇子は謀反の疑いで殺されている。これは一般的には持統天皇の策略であったと信じられており、それで間違いないと思う。血統的に同列であった大津皇子を殺したし、草壁皇子が即位するための障害はないと思われた。しかし悲劇的なことに元々病弱であった草壁皇子は天武天皇が亡くなった数年後に若くして亡くなってしまう。

自らの息子を天皇にするために大津皇子を殺した持統天皇だ。草壁皇子が亡くなった時の絶望はすごかったろう。そして目的は草壁皇子の遺児である文武天皇を天皇にすることに変わった。

病弱であった草壁皇子の子だったこともあってか、文武天皇も若くして亡くなる。その息子の聖武天皇も病弱で娘しかできなかった。こうして持統天皇が自分の子孫のみを天皇としようとしたあまり、血統の断絶が確定するところまで追い込まれた。しかも大津皇子の例のように天皇の地位を狙っていると思われると殺されてしまうのだから、称徳天皇の頃には天武天皇の子孫で天皇になれそうな人材がほとんど残っていないという状況になっていた。

では称徳天皇の後に天皇はどうなったか。なんと天武天皇の血を引かない、天智天皇の孫であった光仁天皇が歴史上最高齢(現在も更新されていない)で天皇に即位するという事態になった。

天武天皇は天智天皇の息子の大友皇子から武力で天皇の座を奪った(大友皇子が壬申の乱時に即位していたかどうかは諸説ある。天皇に即位していたとすると天武天皇は当時の天皇に刃向かったことになるので日本書紀が意図的に記述しなかったという説があり、宮内庁はその説を取り大友皇子に対して弘文天皇という名前を贈っているが、日本書紀の記述通り即位していなかったという説もある。しかし壬申の乱がなければ皇太子であった大友皇子が即位することが決まっていたので、どちらにしろ天皇の座を奪ったことに変わりはない)のだから、大きな理由がなく天智天皇の系統に変わることはありえない。しかしなぜか天智天皇の系統にここから変わった。

光仁天皇の息子で聖武天皇の孫にあたる他戸親王が皇太子になったので、その次の天皇はどちらの系統にも属するはずだった。しかしなぜか他戸親王は呪いをかけたという疑いをかけられて最終的には変死する。そして光仁天皇の息子で百済系渡来人の氏族である高野新笠を母に持つ桓武天皇が即位することになった。現在の天皇はこの桓武天皇の子孫だ。その桓武天皇が平安京に遷都することで奈良時代が終わり、平安時代が始まる。

ここに日本史上似た事例があるので紹介する。何度か紹介した応神天皇の五世の孫、継体天皇だ。継体天皇の前の武烈天皇は日本書紀には暴君として記述されている。しかしこの日本書紀の記述は暴君として有名な夏の桀王と殷の紂王の記述からねつ造されたと言われている。武烈天皇は暴君だったから、正統性が乏しい継体天皇が即位したのはやむを得ないと読者に思わせるためにねつ造したのだろう。既に紹介した中国の易姓革命と全く同じ流れだ。

そして現在の天皇は継体天皇の息子の欽明天皇の子孫だが、欽明天皇の母親は武烈天皇の妹(姉説もある)だった。

以上の例から分かるように、古来の天皇は血統が遠い皇族が即位した場合、元の天皇と血筋が近い人との息子を皇太子にして、前の皇統から血筋が遠くなりすぎないように工夫してきた。他戸親王が皇太子にされたのもその一環であったはずなのに、廃太子にされたのは天武天皇の血筋を根絶やしにしようとした策略を感じざるを得ないのだが、これ以上は陰謀論になっていきそうなので議論は辞めたい。

とにかく持統天皇の行動により、自分の子孫どころか天武天皇の血統自体をほぼ根絶やしにし、天武天皇の子孫は天皇の座を失った。そして自身の子孫の称徳天皇が道鏡に対して天皇の地位を譲ろうとする事態になったのも、自分の代で自分自身の血統が絶えることが分かっていたことと無縁でない。

しつこいようだが称徳天皇の次は天智天皇の孫の光仁天皇になる。つまりここで武烈天皇と同じ状況が起こったのだ。武烈天皇と同じく、意図的に悪く書かれている可能性を考慮しなければならない。実際、日本書紀の次に書かれた日本の正史である続日本紀のこの時代の記述があるが、それは平安時代初期に書かれたものだ。称徳天皇とは別の血統の天皇の治世下による記述だから称徳天皇の真意が書かれているとは思えないどころか、意図的に悪く書かれている可能性が高い。

真意がどうであれ、称徳天皇は自らの手で天皇を廃止にしようとした張本人である。持統天皇はまさか自分のエゴが称徳天皇の行動の原因を作ることとなるとは予想だにしなかったろう。

称徳天皇の試みは宇佐八幡宮信託事件により頓挫する。この件は天皇が自ら天皇の断絶を謀った唯一の事例であり、外部ではなく内部からの試みであったことから最もピンチを迎えた事例と言えるだろう。

つまり奈良時代には天皇の地位は他の一族に変えることができる存在だったことを天皇自らの手で示した時代だったし、持統天皇のエゴによって皇統そのものが断絶する危機を迎えた時代でもあった。そしてその危機は直前で阻止され、本来天皇にはなれないはずだった天智天皇の孫を即位されることで解決した。

平将門と藤原純友

その後の平安時代はどうなるのか。新皇を名乗った平将門について議論したい。

平将門・藤原純友による反乱は承平天慶の乱と呼ばれる歴史上、非常に重要な反乱だ。平将門は桓武天皇の五世の孫であり、新皇を名乗った。

五世の孫だと血筋が遠いと思う人がいるかもしれないので明記しておきたい。何度も紹介している継体天皇は応神天皇の五世の孫である。よって既に天皇の五世の孫が即位した実例がある。

次に臣籍降下だが、臣籍降下をした後に皇籍に復帰し天皇になった宇多天皇という実例がある。その息子の醍醐天皇に至っては生まれたときは皇族ではなかった。生まれたとき臣籍の身分で天皇になった唯一の天皇だ。

ちなみに話はずれるが現在の皇族が断絶の危機にあるため、GHQによって廃止された旧宮家の復活が以前から議論されている。その際に一度臣籍から皇族に戻り天皇になった前例があることは議論の後押しになっているため、今後名前を聞くことがあるかもしれない。

平将門が京都にいた時代と醍醐天皇の在位は重なっている。つまり平将門から見れば、その時の天皇は生まれたときは皇族ではなく、しかも過去に天皇の五世の孫が即位した例もあるという状況だ。平将門が天皇になるロジックは荒唐無稽な話ではない。

平将門自体は天皇を滅ぼすことまで考えておらず、関東を制圧するだけで満足していたかもしれない。というのも関東から京都は距離もあり、途中で土地が狭く待ち受けしやすい関ヶ原もある。関東から京都に攻め上るのは簡単ではない。直近でやりたいことは関東に武家政権を作ることだった。天皇に成り代わろうとまでは考えていなかったのではないか。

しかし藤原純友は違う。瀬戸内海をほぼ制圧しており、大阪湾から淀川を上れば平安京の近くまで行ける。当時の朝廷は桓武天皇によって軍隊がほぼ廃止されており、検非違使による最低限の警備しか行われていなかった。平将門が討ち死にするのがもう少し遅ければ、藤原純友は京都への侵攻を行ったはずだった。

後にも先にも、この承平天慶の乱は最も天皇の地位を揺るがした大事件で、本当にあと少しで天皇がなくなる寸前までいった事件だ。この事件は平将門の討ち死にという奇跡的な展開により藤原純友の京都侵攻という最悪の事態は回避された。しかし軍隊を持たない朝廷にとって、これを回避できたのは奇跡としか言い様がない。

海音寺潮五郎氏はこの奇跡が現在まで天皇が存続した理由だとしている。実際この後の歴史を見ると、表立って天皇を滅ぼそうとした人物はこの先登場しない。ここが歴史の分岐点であった可能性はある。

源頼朝と後白河法皇の争い

後白河法皇は当時の源平合戦に翻弄されながらも、軍を持たない朝廷の存在感を高めるための謀略を張り巡らせた。人によっては評価は割れるだろうが、政治家として能力が非常に高いということは疑いようのない事実だ。源頼朝からも日本国第一の大天狗と呼ばれたと言われている。

源頼朝はまず鎌倉に地方政権を作ることに集中したため、当初の源平合戦には参戦しない。最初は従兄弟である木曽義仲により平氏の京都追放が行われる。このときに三種の神器と安徳天皇と一緒に逃走したため、後白河法皇は三種の神器なしで後鳥羽天皇を擁立する事態となる。

平氏の本拠地でもある西国では木曽義仲は平氏に全く勝てなかったし、当時誰もが平氏が滅びることは当分無いと考えたはずだ。それほど西国での平氏は強かった。ここで天才の源義経が現れる。源義経が異常なスピードで木曽義仲も平氏も滅ぼしてしまうのだ。ここから源頼朝と後白河法皇の激突が始まるといってもいいだろう。

源頼朝は朝廷からは独立した政権を作るため、部下たちには朝廷から官位をもらうことを禁じていた。それは朝廷とは違う政権を作ろうとしているのに部下たちが勝手に朝廷から官位をもらって朝廷を敬っていては収拾が付かない。当然の判断だった。

しかし源義経は勝手に官位をもらってしまう。もちろん後白河法皇の差し金だ。そして源義経を殺すことを源頼朝は決意する。

源義経は後白河法皇に源頼朝を討つために頼朝追討の宣旨を出すように要求し、後白河法皇はこれを認めてしまう。義経たちを支援したことに激怒した源頼朝は義経たちを討つためという名目で全国に守護・地頭を設置することを認めさせた。鎌倉の地方政権にすぎなかった政権が全国に自分たち側の人間を配置することができるのは鎌倉幕府成立において非常に重要な一歩だ。実際にこの守護・地頭を設置した1185年が現在の日本史の教科書では鎌倉幕府成立の年とされている。それほどまでにこれ以前と以後で鎌倉幕府の立場が変わったのだ。このように後白河法皇から少しずつ権限を奪うために一進一退の交渉を重ねていくこととなる。

源義経を匿う奥州藤原氏を源頼朝は滅ぼそうとし、後白河法皇に宣旨を求めるが、これも当初は許可されず、鎌倉幕府は自身の判断により奥州藤原氏を滅ぼすことに成功する。これも皇族のお墨付きを得ずに戦争を開始した点で朝廷からの脱却の第一歩だった。その後も後白河法皇との交渉は熾烈を極める。

鎌倉幕府の成立は以前は1192年とされてきた。これは源頼朝が征夷大将軍になった年だが、実はこの年は後白河法皇が亡くなった年でもある。後白河法皇は源頼朝を征夷大将軍にすることを死ぬまで認めなかった。死後の数ヶ月後に源頼朝が征夷大将軍になったことからも、1192年は鎌倉幕府が成立した年というよりも後白河法皇が死んだ年という方が正確だと私も思う。だから教科書の記述が守護・地頭を設置した1185年が鎌倉幕府成立の年に変更されたのだ。

このように鎌倉幕府は後白河法皇から如何に朝廷の権限を奪って幕府の権限を強くするか、必死にやりとりをしていることが分かる。しかし源頼朝は天皇自体を廃止にすることを考えなかった。ここまで自分自身を苦しめているのにだ。

そして源頼朝の死後だが、後鳥羽上皇による承久の変が起こる。この時に朝廷側は戦争に負けるので、この時は天皇を廃止する絶好のチャンスだった。しかし鎌倉幕府は朝廷を廃止することなかった。鎌倉幕府が皇位継承にも口を出せる状況になり、ほぼお飾りになったにも関わらずだ。これの理由は分からない。先程も紹介したように承平天慶の乱以後に表立って天皇を廃止しようとするものは現れない。やはり承平天慶の乱が大きかったのであろうか。

足利義満・義嗣親子による天皇乗っ取り

足利義満は天皇を乗っ取ろうとしたという有名な説がある。具体的に言うと足利義満の息子の義嗣を天皇にしようとした事件だ。最もこの説は事実だったかどうかは諸説あり分からない。

事実だけを書くと足利義満は死後に朝廷から『鹿苑院太上法皇』という名前を贈られている。これは足利義満のことが嫌いだった息子で次期将軍の義持により阻まれるが、朝廷が皇族ではない人間に対して法皇を意味する太上法皇を贈るのは異常な事態だ。

義満は義嗣の(親王に準じた形式で行われたという説がある)元服の直後に急死する。あまりにもタイミングが良すぎる死なので暗殺説があるほどだ。もう少し義満が長く生きていれば天皇の地位がどうなったのかは謎ではあるが、今とは違うものだったかもしれない。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は天皇をどうしようとしたのか

織田信長は全国を統一する前に本能寺の変で戦死したため、日本を統一した後にどういう国作りをしようとしたのかは不明だ。しかし天皇からの官位を途中から断っていた点など、何か考えがあったはずだ。しかし現在では謎のままであり、天皇をどうするつもりだったのかは不明だ。

豊臣秀吉は元々身分が低いことは非常に有名だ。一応武家の出身であった織田信長や徳川家康とは全く違う状況だ。織田信長は平氏、徳川家康は源氏であると自称することができたが、豊臣秀吉はあまりにも元々の身分が低すぎたため、そのような偽装すらできなかった。

そこで豊臣秀吉は自身の血統を隠すために藤原氏の養子になったり、天皇から太政大臣や関白に任命してもらうことで権威を保とうとした。豊臣秀吉は自らの血統を隠すために既存の朝廷の権威を利用しようとしたため、将来的には何か考えがあったかもしれないが、天皇の座を奪うような行動はしなかった。

豊臣秀吉の死後に天下を取ったのは徳川家康だ。徳川家康は自身の家系図を偽装し、源氏の名門である新田氏の子孫であると名乗った。新田氏は本来将軍家の足利氏に並ぶ名門だったはずだが、没落が続いていた。新田氏は江戸時代に親藩扱いとなり、将軍家の一族ということで新田氏の見直しが行われたので新田氏としても悪い取引ではなかっただろう。家系図のねつ造により、徳川家康は源氏か平氏しかなれないと考えられていた征夷大将軍になることに成功した。他にも源氏長者になることにも成功している。

徳川家康は朝廷に対し、禁中並公家諸法度で皇室や朝廷を縛り、政治に介入することに大きく制限を加えた。これは将来も含めて、天皇や朝廷が政治に介入してくる可能性を考慮していたからだと思う。

関ヶ原の戦い前後の徳川家康の行動を見ると、徳川家康は江戸幕府を滅ぼすとしたら豊臣家か島津氏か毛利氏か天皇だと考えていたとしか思えない。豊臣家はその後に取りつぶしに成功するが、関ヶ原の戦いの時に敵中突破をし、徹底抗戦をした島津氏の取りつぶしに失敗し、毛利氏は吉川広家の機転により決定していた取りつぶしを回避している。一説には毛利氏の存続を徳川家康はずっと後悔していたとまで言われる。まさか260年後に天皇を擁した薩長軍が幕府を滅ぼしたと徳川家康が知ったら本当に悔しがったと思う。

徳川家康は天皇の存在が将来の江戸幕府を滅ぼす原因となることに気付いており、そのための策をいくつか打っている。自身の神格化を進め、死後に日光東照宮を建設させて、自身を神として祭らせたのもその一つだろう。儒教を広めたのも武士が将軍家を裏切らないようにするための策だったはずだ。もっとも儒教については幕末に尊皇思想を生むことになるので、これは誤算だったはずだが。

徳川家康は天皇に対してかなり警戒をしていたにも関わらず、天皇を廃止にしようとは考えなかった。これまでの幕府にならい、朝廷から征夷大将軍に任命してもらい実権を握る以上のことはしなかった。

徳川家康は過去の歴史を研究していたことで知られており、鎌倉幕府の歴史書の吾妻鏡を愛読していたとされる。これは私の想像だが、おそらく徳川家康は過去の歴史研究から天皇を滅ぼすことは少なくとも自分の寿命内に行うことは不可能だと考えたのではないだろうか。

朝廷から征夷大将軍に任命してもらい、その権威で幕府を作って実権を握る方針を踏襲しつつも、朝廷を禁中並公家諸法度で縛り、御三家を作って自身の後継者が絶えることを無くしたり、外様大名の周りを信頼できる大名で固めたりと、あらゆる策を打つことで過去の幕府の過ちを踏まないようにしていった。また自身の後継者である徳川秀忠のように、将軍が常に優秀な人物とは限らないことも考慮に入れた上で優秀な人間を老中にして政治をさせるなど、自身の子孫が優秀でなかった時のことまで考えていた。

そこまで考えていた徳川家康が天皇を取り潰さなかったのは何か考えがあった上で無理と考えたのではないか。関ヶ原の戦い後に徳川家康に残された寿命はそれ程長くない。幕府の基礎を作ることと豊臣家を取り潰す以上のことはできないと判断したのだろう。

公武合体・攘夷を覆さなかった孝明天皇

幕末の孝明天皇は攘夷に非常にこだわり、海外の国との条約を結ぶことを非常に拒んでいた。幕末に幕府を散々振り回した天皇として知られている。

孝明天皇は古くから暗殺説がある。疑われるのも当然で、孝明天皇が存命であれば明治維新を天皇の名の下に行うことは絶対に不可能だった。孝明天皇は幕府主導の公武合体を頑なに進めようとしていたし、外国との条約も認めようとはしなかった。

孝明天皇の死後に即位した明治天皇はまだ若く、この明治天皇の元で激動の明治維新が行われ、明治維新を行った者達の手で日本の近代化は果たされる。

もし孝明天皇が存命ならば幕末の歴史はどうなったか。明治維新はなされず、江戸幕府によって近代化が行われていったかもしれない。ちょうど清が体制を大きく変えずに近代化を果たそうとしたのと同じ状況だ。天皇抜きで明治維新を行おうとして、譲らぬ幕府軍と薩長連合軍の血みどろの戦争が国内で行われたかもしれない。

新政府軍と幕府軍の戦争がほぼ回避されたのは徳川慶喜に戦う意思がなかったからだ。これは徳川慶喜の母親が吉子女王という皇族の人間であり、父親は水戸学の影響を受けた水戸藩当主の徳川斉昭だったことと無縁ではないだろう。徳川慶喜には天皇と戦う意思は全くなかった。だからこそ明治維新は王政復古により政権の委譲に成功し、幕府軍との全面戦争を回避できたのだ。もし天皇抜きで薩長連合軍が幕府軍と対峙していたら、日本の幕末の歴史は大きく変わっていただろう。

孝明天皇が若くして命を落とさなければ、天皇中心の国家が明治維新によりできることはなかったはずだ。その場合、天皇の地位はどうなったのか。今となっては誰にも分からない。

最後に

このエントリーは極力異説があるものについては紹介に留めて、極力事実として確定しているところだけから議論を進めた。

以上のように日本の天皇は何度も危機を迎えており、奇跡的にキーパーソンが絶妙なタイミングで亡くなったり、政権保持者が天皇の地位を奪うことをそもそも考えなかったりと、奇跡的な展開をいくつも経て今の天皇が存続している。

歴史を紐解けば、その時々でなぜ天皇が存続したかがある程度分かるが、なぜ現在まで続いたのかは分からない。ただ事実は小説より奇なりという言葉もあるので、実は理由なんかなく、偶然の積み重ねで続いているだけなのかもしれないとも思う。

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