おババの終活代行を再開したついでに、自分の終活も開始した その1
先日、おババのタンスの中の大量の服を整理しました。生きた年月と捨てられなかった過去の蓄積。いろんな意味で辛かったです。
いったいこの人は何十年間洋服を捨ててないのだろうか。
いつか自分が死ぬ時、この大量の洋服を捨てるのに、誰かの手を煩わせる事を何とも思わなかったのだろうか。
そんなことを考えましたが、人の生き方や習慣はどうすることもできません。今回50枚以上の洋服を整理して、使えそうなのはポケットから出てきた、ポケットティッシュだけでした・・・かなり黄ばんでます。
モノがあるのが当たり前の時代に生まれた我々がシンプルな人生に傾倒し、断捨離やミニマルに走る。それはある意味当然の流れです。それに対してモノがなかった時代を生きた人がモノに固執し、捨てられないのも必然なのかもしれません。
ウォークインクローゼット化した部屋の片隅に、布団を敷いて寝ていたおババの姿が忘れられません。ミニマリストたちがあの光景を見たら発狂するでしょう。
死ぬことがわかっているなら、死ぬ準備をすべき
ありあまる洋服は、残された人の負担にしかなりません。
今は20代でもミニマルライフの概念が浸透しているので、若い世代は大丈夫だと思いますが、今の60代、70代はかなりのモノを所有しているはずです。それを処分することになるのが今30代、40代の人たちです。
この記事を読んでいるのもその世代の方々が多いと思いますが、もし自分の親が終活の意識が低いのなら、かなりの作業量を覚悟しておいた方がいいです。
自分のモノの断捨離はまだいいですが、人のモノを捨てるのはけっこうメンタルにきます。時間もかかるし、労力もかかる。何より生産性が何もない、ただただ辛い作業の繰り返し。それが何時間、何十時間も続きます。
僕がこれまでおババの終活代行に費やした時間はゆうに100時間を超えます。一番辛かったのは、ガーデニングの残骸の処理。土を捨てて、植木鉢やプランターを洗って、重い植木鉢を市のごみ捨て場へ持って行って捨てる。10個20個ではなく、50個100個のレベル。もう二度とやりたくない作業です。
花を愛でるのは自由ですが、植木鉢を自分の力で捨てられなくなったら、もう花を買ってはダメです。
自分の人生の後片付けを他人にさせることの罪深さをきっちりと考えるべきでしょう。
タンスはあと一つあり、まだまだたくさんの服が眠っています。夏になったら暑さに負けて、絶対にやらなくなります。涼しい今が室内での作業のチャンス。作業はしんどいですが、頑張って続けます。
始めるならば亡くなる前に
亡くなってからやると多分もっと辛くなるのがわかっているので、今必死になってやっているところです。
葬式や親族への連絡、各種手続きなどメンタルに負荷がかかることをやって、さらに遺品整理が控えていると思うと、もうそれだけで絶望します。だから先にやっているのです。
不謹慎かもしれませんが、僕は楽をしたいです。亡くなる事が既に悲しいのに、それ以外の悲しい現実を見たくないし、そこで消耗もしたくない。亡くなった時はそのことだけに集中したいのです。
亡くなったら葬式をするだけ、それ以外は何もしなくて良い。その状態をあらかじめ作っておく。それが多分、僕に一番負担がないと判断しました。
今のおババにはもう何も言えません。
両親にも何も言わない。言ったところで何も変わらないことは明確です。
「いつか人は必ず死ぬんだから、死ぬ準備して!」
これは人に言われることじゃなくて、自分で気づかなければいけないことです。
自分がいつか死ぬとわかっていながら、生きていくのが人間。
それならば、その準備をすべきです。
年を取ってからでいいと思われるかもしれませんが、年を取ったら終活なんて絶対にやりません。作業量が膨大すぎて、どこから手をつけていいかわからない状態。それまでやってこなかった人間がそれに立ち向かえるはずがない。おまけに面倒臭いことをやる気力や体力も残っていません。それが現実です。
できれば体が元気に動くうちがいいし、若ければ若いほどリターンは大きいです。就活と終活、準備が早ければ早いほど自分も周りも楽になるという意味では同じですね。
死ぬ事を常に意識したライフスタイル
それはそれでかっこいいのではないでしょうか。
長くなったので、続きは次回へ。
次は20代からの終活について僕なりの考え方をまとめます。
今回の記事はちょっと重くなりましたね、ごめんなさい。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
ありがとうございます。有意義なことに使います。