一日千秋

幼い頃から待つということが苦手な性分で、行列のできるお店、といったものに興味はあれどもなかなか足が向くことがない。非常に失礼な、そしてせっかちな話ではあるものの、おひとり様で訪れるライブやコンサートなども、アンコールの途中で一足早く席を立ち、外に漏れ出る音に見送られながら足早に最寄駅への道を立ち去るほどで、余韻を愉しむということよりも混雑を回避したい思いに駆られてしまい、損な性格だとつくづく思う。何よりアーティストへのリスペクトはいずこへ。

今の時期だと、毎年の初詣も、普段は閑散としているお寺や神社の境内に大挙して寄せる人波に辟易してしまい、無礼だろうかと思いながら新年の祈願は静かに年末に済ませるか、松の内明けて遅参することが多い。一事が万事で、子どもたちの毎日の仕度の時間、病院の待合室、カップラーメンの3分間(大抵2分過ぎでギブアップ)。こうなると、時間を持て余すということがもはや恐怖に近いのかもしれないとも思う。同じ時間を追加で与えられたとて、無為に過ごしてしまうのに違いないのに。害のない妄想、ネットサーフィン、あるいはうたた寝に。一体何に追われているのだろう。

神様の1日は人間の1000年、と聞いた。もし、我々の体感する24時間の長さで1000年が過ぎてしまうとすれば、自らの日々の細々した営みなんて風に吹いて飛ばされる誤差のようなものでしかない、と思う。一方で、我々の1000年の間に一度、日が昇り沈みすると考えれば、幼子のように、日がな暇だ暇だと呟くことになるのだろうか。ひとひの中で、生と死が、出会いと別れが、戦と平和が、星の数ほどあるのだろう。お腹いっぱいだ。

あるがままに身を委ねるおおらかさよ。かつて友人を訪ねて奄美大島を訪れたとき、嵐がくれば船便がとまるので、しばらく生鮮食料品に事欠くことがあるという話を聞いた。日頃からずいぶんと備えをしているのか、というと、特にそんなこともなく、近くで畑をしている人に野菜をいただいたり、何となくその時あるものでまかなったりするとのこと。まあ仕方ないよね、と。わたしなら冷凍庫やパントリーの中身をめきめき充実させて、備えに備えてしまうだろうと思う。朝頼んだものを夕には運んでもらえる、安心な環境にどっぷり浸って、甘やかされてしまっている証左だ。

生きていれば、自分の意のままにならないことの方が断然多いのに、いつの間にか万能感を得てしまうのだろうか。自然や時間に身を任せて、その大河の中でただ四肢の力を抜いて、時に致命的な流木などを避けるだけでよいのかもしれない。時間の長さなんてあやふやなもので、自分の一日千秋の思いが、相手が電車を逃した10分に過ぎないこともままあるだろう。焦れることもまた愉しみかな、1杯のコーヒーを飲む時間を与えられたと思えるような心持ちでありたいと決意した瞬間、頭の中でTo Doリストをついめくってしまう悪い癖。

#エッセイ #似非エッセイ

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