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ささいな分岐

いつもは下書きを別の所にしてから書くのだけど、今日は簡単に手短に。推敲してないので読みにくくてごめんなさい。

7/22は中学の同級生の誕生日で、毎年彼のことを思い出す。
同じ年頃の中では背の高い方で、体格も良くて、いたずら好きでカッコつけで、時には殴り合いのケンカをしていたけど「不良」ではなかった。
私も生意気だったので、通路を挟んで隣の席の彼とは口ゲンカ友達と言った感じだった。思春期のことで、同級生たちは色々噂をしていたようだけど、私は恋愛感情なく彼が「好き」だった。荒れていた学校だったこともあり、私たちは授業中ずっとくだらない私語ややりあいをしていて教師を困らせた。その後大ハマりすることになるSLAM DUNKもバスケ部だった彼に教えてもらったのだった。発端は「お前ら柔道部は短足」と言われたことだけど…。

先に言っておくと若くして亡くなったとかそういう話ではない。しかし、30年以上経った今、生きているかどうかも実はわからない。
最後に会ったのは高校生の時だった。私が親と買い物をしていた時、階段の下を見ると別の高校に行った彼が偶然中学校の頃の仲間と一緒にいた。私は軽く手を上げ、彼は私を見てニヤリと笑った。お互いそれだけだった。

何で彼を忘れないかというと、その間の話になる。中学3年の時。

私はちょっと他の人と「変わっている」らしく、色々な時に標的になりやすかった。文化祭の準備をしているときのことだった。同学年の「不良」男子2人に絡まれたのだった。
何を言っていたのかはもう覚えていない。面倒臭いと思いながらも今まで通り罵声を浴びせられながら黙って作業を続けていた。彼らは幼稚園も一緒だったし、その頃から厄介なやつらだと知っていた。
私が「キレた」のは…彼らの言動ではなく、友達だと思っていた同級生の女子が、それを見て一緒になって笑ったのが理由だった。

私は立ち上がり、作業場から教室に戻って机に突っ伏すと、泣いた。不良に馬鹿にされたことより「友達に裏切られた」ことに絶望した。
もちろんその件だけではなくて、周囲とはずっとうまく行っていないことだらけだった。教室に戻ってくると同級生が私の陰口をたたいているところだったとか、ウジのわいた鳥の死体を机に置かれるとか、2年生までは上級生から「生意気」と目をつけられてトイレに閉じ込められるとか、そういう状況を教師に訴えても何もしてくれないどころか、トイレに連れて行かれる最中にすれ違ったら「なかよくしなきゃだめよ」だけで済まされ、勉強を頑張っても「公平」にするために挙手を無視されるとか。
そういうのが積もって爆発した。

比較的仲良くしていた女子が数人声をかけてくれたけど、もうその時はひたすらどんな方法で死ぬか考えていた。どんな死に方をするとどんな死体になるかとか、助けてくれなかった人間たちがそれを見てどう思うかとか、泣きながらそういうことばかり考えていた。

そんな中、ぼんやりと周囲の声も聞いていた。クラスの中心的な女子たちが「構っても無駄」「放っておけばいい」という話をしているのを聞いた。次に男子の声で「お前行け」「でも…」「行かねぇと殺すぞ」というやりとりが聞こえた。
そしておずおずと一人の男子が近づいてきた。クラスの支配層の男子からいじめの対象兼使い走りにされている子だった。突っ伏していたので顔は見なかった。
その子は何か心配するようなことを言ったけど、すぐに諦めて撤退した。何を言われてもとりあう気はなかった。私は死のうと決めていたので。

私は周囲が困っていることに満足だった。もっと困ればいい。私を馬鹿にして、思い知らせてやる。だから死ぬ。

急に額の下に入れていた腕の肘をつまむやつがいた。そいつはそのまま私の腕を大きく揺さぶった。
「なーなー」
びっくりして息が止まった。触られると思っていなかったから。
「なーなー、○○さんて」
顔を上げると、いわゆる「うんこ座り」をした、複雑な表情の「彼」がいた。ただし、私の目の高さに、文化祭の劇の小道具の、ちょんまげのかつらをかぶって。

泣く勢いの強すぎた私は泣き止めなくてまた突っ伏し、しばらく泣いたけど、見えたものに混乱し、徐々に理解した。
彼は私を笑わせようとしたのだった。精一杯考えた結果がそのちょんまげだったのだ。

泣いていいか笑っていいか分からなくなり、だんだん私は泣き止んで行った。結局私は死ななかった。

その時のことを後から何度も考えた。
思春期の男子にとって、周囲が見ている中で女子の体に触れることはかなり難しいはずだ。彼はいわゆる「硬派」であり、特定の女子を見ていたとからかわれる程度でも怒っていた。だからかろうじて触れられたのが私の肘だったのだと思う。それに、訳も分からず激しく泣きわめいてる女子に話しかけるのは、最初に他の男子を行かせていることからも分かるように、恐ろしく勇気のいることだったと思う。
いや、ひょっとしたら彼にとってはそれほど特別なことではなく、当たり前にやったことだったかもしれない。私が大げさにとらえすぎているのかもしれない。
いずれにせよ、私は彼が笑わそうとしてくれたことで生き延びた。

別にその後も状況が好転したわけじゃないけど、私は死のうと思うたびにこの時のことを思い出して二十代くらいまでを越え、結果まだ生きている。
もちろん最初に話しかけてくれた女子たちがいたように私を心配してくれたのは彼だけじゃなかったんだけど、いつも話しかけてくれる女子じゃなく、カッコつけの思春期男子が自分の意志で一生懸命何とかしようとした結果のダサいちょんまげはものすごく貴重だった。あいつはあいつなりにすごくがんばってくれたのだ。死んだらそれを無にするよな、と思った。

15歳の彼が勇気を出してくれていなかったら私は今存在しない。そんなささいな分岐が色んなことを大きく変えることもあるのだ、という話。

誕生日を覚えていると知ったら嫌な顔をするんだろうな。彼が家族や周囲の人も含めて幸せに生きていることを毎年祈っている。


※写真は乗り継ぎで寄ったドバイ。きれいな風景ですが人が誰もいないことから分かるようにめちゃくちゃ暑かったです。


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