小さなあなたへ
幼い自分にかけたい言葉がある。
『あなたは、悪くないよ。
痛かったね。辛かったね。
悲しかったね。』と。
ひとりで遊ぶ、今日も。
ひとりだけどひとりじゃない今日を。
時間も決められ、自由になる時間は
いつも友達はごはんを食べる時間。
それを、寂しい、辛いと思うか、
本を読んだり、……と遊ぶ時間だと
思うかは自分次第だから大丈夫。
そんな風にいつも思っていた。
『今も、変わらない』
いつも、自分が居なくても大丈夫なように
生きてる。
他の人たちは、そんな自分を見て
不器用だと思うんだとわかる。
幼い自分に親から
怒りに任せて浴びせられるビールが頭から滴り落ちた時、
ただの苛立ちの捌け口のように叩かれ続けた時、
『あなただけが頼り』だと言われた時、
親の激しさを増していく感情に、怖くて泣いている自分に、『泣くな、謝れ!』と言われ、謝り続ける自分を尚も叩き続けられた時、
その言葉と行動の裏腹さと、感情の行き場を
無くした親の気持ちが痛いほど解ってしまった時、
幼い自分はただ黙り込み、親子という関係性ではなく、人同士であろうと思った。
生きる為に親の欲しい姿を見せた。懸命に見せた。
はっきりと『イヤだ』と言えなかった自分も
こうしたことを引き起こした原因だ。
悪いことばかりではないこともあり、状況に甘えた自分も悪かった。
しかし、同時にこの状態の親に、『叩かないで、イヤだ』と伝えれば、親は心の拠り所を無くしてしまうことも解っていたから言わなかった。
叩かないでと何度言ったかわからないが、
聞き入れられることは無かった。
誰を責める気など微塵もない。
ただそうだっただけだから。
ただ、いつも空に向かって『助けて』と呟いていた。
なぜこうも器用でないのか、模索した。
その内、自分はいい、他が後で笑えるなら…、と自分を後回しにしていった。
気付けば、上手に笑えない自分が出来上がり、気付けば、上手に生きられない自分がいた。
我が子にだけは連鎖させてはならないとそんな思いで、子どもたちは自由に自分で決めていけるように、様々な体験をしてほしいと伝え続ける。
感情に任せて、伝えても伝わらないことも
自分がいちばんよく知っていたから、
落ち着いた状態で伝え続けてきた。
私で、連鎖を断ち切らないと我が子が苦しんで
しまう。
自分が連鎖の盾になれるなら、せっかく生まれてきてくれた子どもたちに笑って伸び伸びと自由に生きてほしい、自分が足枷にならぬよう、
ちょうど良い距離でいられるように、
子どもたちに色々と話をする。
親の辛く、行き場のない思いは今でも
拠り所を探して漂っている。
それが、自分に向くように生きている。
ある時、友人に『なぜ犠牲になってるの?』と
問われる。
『連鎖させたくないから。』と答えた。
友人は、ただ一緒にいてくれた。
今も、ちょうど良い距離でいてくれている。
親の漂って、激しい感情が酷い時は
親が自分で気付いて立てるまで、
伝え続けている。
自分は、激情をぶつけたりはしない。
意味が無いから。
自分が欲しいのは、ただ在るとし、
過ごせる場所があること。
いっときでも、こんな自分なんかにそんな時間を過ごすことができる機会をくれた人たちに、感謝している。
守る方法がわからなくて、傷付けてしまった人もいる。
その方には、償いきれないものがある。
ただ、沢山の人に囲まれて笑っていたら
いいなと思う。
これは、エゴになるけれど傷付けてしまった分、幸せがその人に、自分は傷付けてしまった方で悪いことをしているから、笑ってはいけない、幸せではいけない、といつも償い生きる。
恥ずかしい自分しかないけれど、コレが自分。
けして、立派な人生ではない。
生きているから、自分の周りにいてくれる人たちにありがとうと伝えて、大切にしたい。
せっかく袖を振り会えた縁なら、
話せてよかった、関われてよかった、
ありがとう、ありがとうと言って
歩いていきたいと思う。
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