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しかがみさま 第一章 第三夜

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昼休みのおかしな笑いは腹の底にくすぶって、家に帰り着いても消えることは無かった。
木のやわらかな木目が活かされた玄関扉に手をかけて、勢いよく扉を引いた。それと同時に

「ただいまー!」

と地球の裏側にまで聞かせてやろうという声量で自分の帰りを家に告げた。
玄関の先の扉の、花が咲いた様な模様が彫られたすりガラスの向こう側から、応えるように声が聞こえた。

「おかえりー!」

母さんだ。にこやかに声を上げ、その声からは帰ってきた事を歓迎するような声色がありありと伝わってきた。
「もう夕飯出来ちゃうよ!手ぇ洗ってきなさい!」
そんな言葉に促され、投げつけるようにして靴を脱ぎ、洗面所に向かって蛇口を捻った。

『ざららららら』

音を響かせながら流れる水は音だけでひんやりする気がした。9月とは言えど、まだまだ続く気怠い暑さに染み渡るような冷たい水が心地良い。石鹸も使って手を洗い、最後に、がらららとうがいを済ませてリビングへ向かう。この時廊下を走って怒られるまでがセットだ。

お行儀良く着席していると、運ばれてきたのは母さんの得意料理、生姜焼きだった。
「生姜焼きじゃん!うまそー!」
「うまそー!じゃなくて美味しいの!」
美味しい、という事を強調するあたり自信があるんだろう。それを証明するように、箸でつまみ上げた生姜焼きを口に放り込むと、ジューシーな少し脂っこさのある豚肉と、甘辛いタレが絡み合って頬が落ちそうなくらい美味しかった。
添えられたパプリカとサラダは、野菜が苦手な俺にしてはよく頑張ったと思う。白米と一緒にかき込んで一気に飲み込むと、母さんが
「あんたちゃんと噛みなさいよ。喉に詰まらせるわよ!」
といつものように注意してくる。そんな事言うならちゃんと噛みたいと思うサラダを作って欲しい。
ほんのり甘い白米にがっついて口直しをしている途中で、ふと今日の夢のことが蘇ってきた。
白いお米が夢の白い子ヤギを彷彿とさせたからかも知れない。
少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「あのさ...母さんってさ、でっかい鹿の夢とか見た事ある?めちゃくちゃ綺麗な鹿でさ、今日夢に出てきたんだよ」
母さんは少しばかり目を見開いて、何かを思い出すようにして語り始めた。

「健太も見たんだ。しかがみさまの夢」

聞きなれない言葉に思わず聞き返す。
「しかがみさま?」
「そう、しかがみさま。お母さんのお父さん…あなたのおじいちゃんね、が言ってたの。
『しかがみさまは誰の心にも存在するんだよ』って。しかがみさまはおっきな鹿の神様なんだって、だから『鹿神様しかがみさま』」

誰の心にも?それならば母さんやじいちゃんも見たことがあるのだろうか?
「じゃあ母さんも見た事あるの?」
と問うてみた。

「そうよぉ。お母さんもね、見た事があるの。健太よりもっとちっちゃい時かなぁ。小学校三年生くらいの時。
夢の中でね、暗い洞窟みたいな所に居たの。どこか分からないし、一人ぼっちで寂しくて悲しくて、わんわん泣いてた。そしたらね、急に洞窟の奥の方に鹿みたいなものが見えたのね。何かがいるって事に安心して、無我夢中で追いかけて、追いかけて。でも影が見えているのに、姿を捉える事は出来なかった。
疲れて疲れて蹲って泣いていたら、覆い被さるみたいにして暖かい被毛が触れたの。
もうびっくりしちゃって。だってさっきまで随分遠くにいたのに、次の瞬間触れるくらいの距離に近づかれてるのよ。その毛に触れられているうちに、何だか心が暖かくなってねぇ。でもね、顔を上げたら消えちゃったの。さっきまでの暖かさも優しさもすっかり消えちゃって、冷たい風だけが吹いててねぇ」
「もう訳わかんなくなっちゃって、真夜中に起きてお父さんの部屋に行っておじいちゃんを叩き起してねぇ、泣きついたのよ」

「そしたらね、おじいちゃんったら『なんだ、お前しかがみさまを見たのか』なんて平然と答えるもんだから、『しかがみさまって何よ。知らないよ。』って泣きながら訴えたのよ。」
さっきの話と繋がったような気がした。
「じゃあ、それでさっきの説明されたわけ?」
母さんはにこりと微笑んで答えた。
「そうなの。でもね、もっと詳しい事も教えてくれたの。
『しかがみさまは心そのものだ。だから魅入られてはいけないよ。しかがみさまはまだ良い。だが、もう一人のしかがみさまは、いけない。見てはいけない。見られてはいけない。魅入ってはいけない。魅入られてはいけない。』
そんな事を言ってた」
何だかよく分からない。サラダに付いていたプチトマトを苦虫を噛み潰したような顔で食べながら言ってみる。
「…?つまりどういう事?俺でも分かるように説明してよ」
「それがねぇ、私もその頃小さかったからよく覚えてないのよ。そういえば健太、最後におじいちゃんに会ったのはいつだったかしら」
言われて、ひい、ふう、みい、と数えてみる。永遠に数え終わらないのでやめた。
「えぇ?…そういえばいつだっけな。もう随分行ってないわ。三年は行ってない気がする」
「えぇ!もうそんなに?…あ!そうだ。今日金曜日じゃない。週末で行ってきなさいよ。それで夢の話聞けばいいじゃない。お金は出してあげるから」
母さんの唐突なその申し出に目を丸くした。
「でも週末部活とかあるじゃん。それが無ければ行ってやっても良いけどぉ」
なんて唇をとんがらせて言ってみる。
「もう!学生は遊びが本分なんだからそんな事気にしなくていいの!お母さんが言っといてあげるから!
おじいちゃん喜ぶわよ!」
思い立ったが吉日が良く似合う母さんだ。夕食を食べ終えて食器を片付けると、早速じいちゃんに電話し始めた。

その間に風呂と宿題を済ませ、消えかける意識を呼び起こしながら歯磨きを行う。
それも済んだら自室の硬めのベッドに潜り込んで、制限が掛けられたスマホのアラームをセットする。そうこうしているうちに、瞼が鉛のように重くなってきた。


うつらうつらとする意識の中、俺はまた、鹿を見た気がした。

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