金言275:「怨憎会苦(おんぞうえく)」

広辞苑によりますと、八苦の一、怨み憎む者に会う苦しみを、怨憎会苦といいます。
四苦八苦のこの世の中で暮らしていると、嫌いな人間と出会うことはさけられないようです。会いたいのに会えないのも、苦しみのひとつです。これを仏教ではなんというのか知りませんが、都々逸にはこんな一節があります。「世の中は、カネと女が仇なり、早く仇にめぐり合いたい」

蒔田小学校の近くに、小学校の同級生が女将をやっている料亭があります。年に何回かこの料亭の前を通る機会があります。天気がよかったりして気分がいいと、予約なしでランチに寄ることがあります。そこで女将の小学校時代の昔話に付き合います。放課後の掃除当番で廊下を走ったことが理由で、当時の担任教師にビンタをもらったことを覚えています。女将との昔話には、毎回こちらからこの教師のことを話題にし、いつか会いたいといいます。女将から返ってくるのは、いつも同じです。「某先生は元気です、連絡先は某君が知っています。」しかしながら、これ以上先に話は進みません。昔話はしますが、同窓会を開くというようなところまでは進みません。お互いに覚えている同級生の当たり障りのない動向を話題にして一時間ほど食事を楽しみ、また、それぞれの日常生活に戻っていきます。この教師に会ったら、「殴られたことを忘れていない」ということを伝えたいと願っています。多少怨みに思っています。自分が提供する怨憎会苦をこの人は味わっていません。もしかしたら、本件は怨み憎む思いが不十分なので、怨憎会苦の対象にならないのかも知れませんが。

糸井重里氏が会えると念じていれば叶うといいます。
お言葉ですが、もし会えたとしても、それから先には何もないかもしれません。
何十年も会っていない人にめぐりあえるのは、幸せなのでしょうか。
当時とは環境が変わっています。
見えざる手が再会叶わずで、このままそっとしておいてくれるのかもしれません。

また会いたい人に会えないことの、自分なりの諦めです。

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