3.’人類共通’を疑う

「〜とはこういうものだ」という世のあらゆる物事の定義の前提に、「人間の理解」は人間である限り同じであるという考え方がある。これが疑わしく思えてならない。

「人間は正しい教育を受けてさえ入れば、人間固有の能力により、皆同じように現実世界を正しく認識できる」あたりのことを言われた時に、疑問視したいのは「現実世界を正しく認識できる」という部分。これを、「現実世界を、それぞれの見方で頭の中に再構築できる」と言い換えたい。要は、人が認識する世界には、唯一絶対的に正しい一つの姿がある、という前提が腑に落ちない。

確かに現実世界は実際にそこにある「物質世界」一つなんだろうとは思うが、「ヒトが頭の中に認識した物質世界」と「物質世界そのもの」は同じではないだろう、と思う。どれだけその「それぞれの認識」が「現実の物質世界」に近いか、は議論の対象となりえても、それぞれの認識が正しいか正しくないかは、そもそも人間が判断できるような類のものではない気がする。だから、そもそも「現実の物質世界」を「正しく認識」する時の「正しく」という言葉がまず胡散臭い。

科学できちんと証明(解明)できるものが「正しい」ということだと言われても、そもそも科学で証明されていないものなど腐るほどあり、また証明できないが伝統的にこう認識されていてどうやら正しい、というものも腐る程ある。

つまりは単純に、現在の「先進諸国」が「共有する」世の中では、「科学」というモノの見方で現実の物質世界を判断(認識)することが「正しい」ことですよ、と定義しているに過ぎないのだと思う。そして、その「科学的認識方法」は実際のところ、「ブリテン島固有のものの見方から生まれた現実の捉え方」が、欧州で複雑化したものだと考えている。そもそも、現在当たり前のように人類共通として捉えられている、世の中を分析する数々の「学問」の定義そのものも、元々は単純に「欧州という土地における考え方に基づいた、土着の認識方法がまことしやかに定義されたもの」なのだと思っている。

日本においても、例えば学問において「どこどこの国の何々という人(学者等)が、このことに関してはこういう風に説を唱えているから、これはこうなのである」という定義付けが当たり前のようになされているが、その前提そのものを、そろそろ疑ってもいい気がする。「一つの正しさ(認識方法)」に基づく「世界共通」の考え方には限界がきている気がする。

ある一つの土着の思考が「世界共通」と考えられているのは、そこから生み出された社会体制が「正しい」ものとして世界に蔓延しているからであって、しかも、多くは「正しい」という思い込みで、各地の現実に生じた、その地の土着の「正しさ」との不一致を無視しているだけの状態なのだと考えている。

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