17. ヒトの高次性、言語の独自性

人間は高度に発達した脳を持ち、言語を操り、思考と想像と創造が可能である、この高度な能力は人類共通であり、ゆえに言語と思考と想像と創造の力は、人間皆が平等に有するものである、という考え方に懐疑的だ。

懐疑的だというよりも、いくつかの事象が混同されているように思えてならない。

そもそも、現実の「認識」の「音への置き換え」と、「その蓄積」が言語の始まりだと考えていて、そういうことが可能だった脳を有する、ということがヒト共通の特徴なのだと思っている。また、ヒトの最大の能力は、その高度な適応能力であり、それもヒト共通である、と思っている。

「言語」や「思考」、「文化」というものは、その高次の適応能力のゆえに、その次段階に成立したものであって、それぞれの「族」の適応先の生活のありかた(=自然環境と立地条件)によってそれぞれ異なる。

つまりは、「言語や文化や思考を有することが可能な脳をしている」、「高度な適応能力を有している」という部分は人類共通であっても、「その高度な適応能力のゆえに、適応方法(=言語、思考、文化)は、それぞれが暮らす土地の条件に応じて様々だった」と言いたい。そして、それを「環境が人間の思考を決定づける」のではなく、「ヒトが環境に適応した結果、環境に応じて多様になる」と定義したい。ハードウェアが同じなのであって、そのハードウェアを使って作ったソフトウェアは、環境に応じてそれぞれだ、と考えるのが最も附に落ちる。そして、言語も文化も思考も理解も、すべてソフトウェアに属すると考えている。

ので、「ヒト=動物」としてのごく「原始的」な部分に関わること(生殖および基本的な生命活動)を人間は共有するが、ヒトが高次の能力を有するがゆえに発達させた諸々のもの、「言語、思考方法、理解方法、学問、生活様式、文化、芸術」等の、「人間は高度な脳を有するがゆえに、高度な概念を理解でき、ゆえに共通で価値を見出すことができる」と考えられがちな諸々のものたちは、本当はヒトが高次の能力を有するがゆえに、実際には共有できてはいない、と考えている。

ヒトは高次元の能力を有するがゆえに、言語=思考は、それがそもそも育ってきた土地土地によって、基本的には全て異なる、と言いたい。

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