9.言語と土地と考え方 1

固有名はなるべく出さないようにしたいのだが、Sapir-Whorf hypothesisというものがある。学説として云々というよりも、言っている内容が附に落ちる。

ちなみに、学説云々という議論を無視して、言わんとしていること「だけ」を素直に読み取ろうとすれば、「言語構造の違いが、人間の認識や行動の違いを生む」となるように思う。

全く異なる言語を話す人々との、実生活上のコミュニケーションの経験と、その際に起こる事象(ミスコミュニケーションなど)の観察・解釈からそういう結論にたどり着いた、と理解している。確かに、経験と現実の観察から「実在した」と知っていることを熟考して知識と照らし合わせ文章にまとめた、のだなと附に落ちる。

この「仮説」には賛否両論あるのだが、ここで「否」の立場を取る人々は、「この説の文章が言わんとしていること」ではなく「この文章に使われた言葉」を別理解して異を唱えている気がしてならない。そしてこの類の人々には概して「実経験」が少ない。多くは自分が馴染んだ文化圏の生活しか実体験として知らない。多言語を操る人はあっても、その「多」は同一語族内の「多」で、まったく違う構造の言語に関しては、自国語を介した「知識」としてしか知らない。そういう中で、多くの「論」は、言葉(のみ)を介した知識から生み出されている。こういうものは、理解はできても腑に落ちない。

かつ、この「仮説」が学問上の分類のこちらに属する、となった時点で、あれ? となる。もしかすると、賛否の「賛」の立場を取る人々も「この説の文章が言わんとしていること」ではなく「この文章に使われた言葉」を別理解して賛同しているのかもしれない。

かく言う私も、同様なのかもしれないけれども。

いずれにしても、この「仮説」は附に落ちる。というよりも、そりゃそうだろう、と思う。この附に落ちる理由を、何回かに分けてまとめてみたい。

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