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4.頭の中の擬似世界

「知識」という言葉が意味するものを考えてみる。

と、言語というヒト特有の能力の存在にまずぶち当たる。ので、まずは言語の始まりを、動物のコミュニケーションのあり方から、附に落ちるように想像してみる。

どの動物であっても、様々な種類の声の出し方とジェスチャーで互いにコミュニケーションを取るという。それぞれの動物研究の専門家たちも、長年特定の動物を観察研究していると、この声は「甘えている」だとか「危険を伝えている」だとか、この動きは「警戒している」、「喜んでいる」などということが分かるようになるという。「その音やジェスチャーでこういうコミュニケーションを取っている」というのは、あくまでヒト側が観察から、そうと想像をしているだけではあるけれども、動物たちがこれまで「ある特定の声を出す・ジェスチャーをする→反応する」という行動を繰り返して恙無く種が存続してきているという事実は事実だから、「ある特定の声を出す・ジェスチャーをする」を、取り急ぎ「その動物が生き延びるための種族間のコミュニケーション手段」としても、たぶん差し支えない。

ヒトも、他の動物たちと同様に、太古の昔には声のトーンやジェスチャーで、互いにコミュニケーションを取っていたと想像する。「この声の出し方は、こういうことを伝えているぞ」という共有体験の認識方法を、ヒトという生物は共有していた、と。ただし、そのコミュニケーション手段で伝えられるものは、当然「今、目の前にあるもの」。

そのうち、おそらくは必要性から、ある特定の音を、ある事象を指し示す「代替え品」として、認識できるようになる。例えば「獲物」を表す言葉。目の前に獲物がいなくても、「獲物」という事実を、ある特定の音に置き換えて、伝えることができるようになる。ヒトの脳は、現実の必要性に沿ってそういうふうに適応できた、と。

(世に文字を持たない民族がかつても今も存在していることを鑑みると、やはりまずは音=声による置き換えがあって、その後に、その部族が生活している土地によっては「文字」による置き換えが、それぞれの必要性に応じて同時多発的に起こったのだと思う)

物質世界のものの認識の代替えのみならず、痛い、嬉しい、悲しい、などの体感(実態のないヒトの感覚など)も、ある特定の「音」で表現されて、事実の代替え品となる。そして、ヒトの脳は、その「認識」を蓄積できるように適応した、と。

それを、長い、長い、長い間(万年単位で)続けてきた結果、言語という、それぞれの決まり事に則ったコミュニケーション体系が整っていった、と思う。

ヒトの脳は、

①現実の物質世界(及び自らが体感する事象)を認識する部分=体験を伴う
②言語により伝達された事象を認識する部分=他者の体験の理解であって、体験を伴わないが、①に基づいていることが多い
③言語による認識と理解を使って、現実の物質世界には存在しないものを想像する部分=空想、妄想
(*さらに、③は、現実との接点を持ったものと、そうでないもの(完全なる空想)部分に別れる)

が絶妙にバランスを取り合って、働くようになっていったと思う。

これは、「実際の物質世界の擬似世界」を脳内に作り上げることができるようになった、ということを意味していると思っている。

で、「知識」は、主に②の領域に属する何かのことなのだろう、と考えている。

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