地球最后的夜晩|LONG DAY'S JOURNEY INTO NIGHT

とんでもない監督を見つけてしまった。
現在公開中の『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』を手掛けたビー・ガン監督だ。

何がすごいって、その感性だろう。
かつて見たことのない美しさで舞台となった凱里が描かれており、その新進気鋭っぷりに痺れてしまった。
ここでは3つの観点から監督の感性に迫れたら、と思う。

1. テーマは「夢と記憶」

劇中で「映画と記憶の最大の違いは、"映画"は常に虚構だが、"記憶"には真実と虚構が混在し、眼の前に現れては消える」とモノローグが語られるように、本作は夢かうつつか曖昧に浮かぶ記憶を繋ぎ合わせたような作品だ。
時系列がごちゃごちゃなのはもちろん、影に執着したカットが幻想的な雰囲気をもたらしている。

ここでいう影とは光を遮ることでできる影や暗闇のなかの陰影、水面にうつる姿など多義的なものを指す。
例えば壁に掛けてあった時計を外すシーン。
「夢と記憶」というテーマにおいては時刻を象徴する何かしらがモチーフになりやすいと思うのだが、計算し尽くされた照明の当て方によってアイコニックなシーンへと昇華させている。

また特定のシーンは挙げきれないが、暗闇のなかでのコントラストが強調されたカットが多いのも印象的で、色彩感覚やVFXなどは昨今の中国を始めとしたアジア圏のカルチャーに通ずるような既視感をおぼえる。

一言でいって、非常におしゃれだ。

雨越しに女の面影を追ったり、艶やかなキスシーンの後に水面をうつしたりと水が印象的なカットも多く見受けられ、これらが作品をより魅惑的なものにしているのは間違いない。
ちなみにこれは壁から水が滲むほど湿度が高かったという監督の故郷・貴州での記憶が反映されているのだそう。

2. 凱里に込められたノスタルジー

そう、この作品には監督のノスタルジーが込められている。
前衛的だった演出に対し、音楽はどこか懐かしさを感じさせるようなサウンドが奏でられ、70年代の流行歌「アザミ嬢のララバイ」が流れる。

印象的なのが、フロントガラス越しに街並みが映し出されるカットだ。
一般的には車内からのアングルが想像されると思うが、カメラを外側に取り付け斜めのアングルから撮影することで、凱里の狭い道を如実に描いている。
また、終盤60分間の舞台となる架空の街・ダンマイにも高低差のある地形を反映しており、監督の、発展を遂げてしまったかつての凱里への哀愁を感じる。

3. 映画としてのエンタメ性

そして特筆すべきなのは、ただのおしゃれ映画で終わらない点だろう。

劇中で3Dが始まることを示唆し、そこから驚異の60分間のワンシークエンスショット。
インディ・ジョーンズのアトラクションに乗ったかと思えば、ピンポン(作:松本大洋)に出てきそうな素朴な卓球少年があらわれ、リフトで降下するときには3Dのちょっとした違和感が独特の浮遊感へと変わる。

その作品自体のエンターテインメント性もさることながら、ダンマイの街をぐるぐる彷徨ったり、儚い花火が消えてしまう前にエンドロールが流れたりと際限のない世界観は『インセプション』を彷彿とさせる。


前衛的なのにどこか懐かしいのは、夢か現か。

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