被害者、加害者の実名について

記事では、被害者に著しい被害が及ぶ可能性がある場合は姓名のいずれかを匿名とするが、遺族や関係者についてはメディアや講演会などで名前を出している場合、書籍などで名前が出ている場合、すでに他サイトなどや過去の報道で容易にその氏名がわかる場合はその限りではない。
たとえば光市母子殺害事件の被害者遺族、本村氏などは匿名にする方が不自然なほどその名前には強さがある。
そのあたりの判断は、私自身が慎重に考えてどうするかを決めている。

被害者のみならず、加害者についても、殺人事件でない場合や、すでに服役を終えて出所しているケース、加害者特定が正義と思えない場合などは仮名にしている。

以前、名護市女子中学生暴行殺害事件について書いたとき、被害者や遺族の実名を出していることに批判が寄せられた。配慮がない、と。
この事件については、事件当初こそ、被害者が行方不明でありその詳細がわかっていなかったこと、そもそも顔と名前を出さなければ捜索のしようもないこと、そして、なによりもご両親、特に父親の茂さんがマスコミの取材にも顔、名前を出してしっかりと答えられ、なんとしてでも愛娘を捜し出すのだという気持ちを強く持っておられたことから、犯人逮捕にいたるまでは美香さんの顔も名前も出ていた。

しかし。
犯人が見つかり、事件の詳細がわかると、マスコミ(特に新聞)は、とたんに美香さんを匿名に切り替えた。さらには、事件の内容まで「ぼかして」報道し始めたのだ。
私はこれに断固反対である。
理由はただ一つ、事実はその人の尊厳にかかわるからだ。
ここでいう事実とは、詳細な内容ではなく、「どこの誰が、どんな事件に巻き込まれてどんな結末になってしまったのか」ということである。
その中でも、「どこの誰が」という点はもっとも大切な部分である。
なぜならば、「どこの誰か」が不明ならば、その事件そのものがとたんに嘘にまみれ始めるからである。

たとえば「九州地方のどこだかは知らないけどある都市で、何歳かわからないけど若い女の子が、どういう状況かは知らないけど連れ去られて殺されたんだって」という話を伝えられたとして、いったい誰が真剣ににその話に向き合うだろうか。
というか、こんなのうわさ話でしかない。ていうか都市伝説にも及ばない。
さらに、その事件自体は本当だったとして(例えば犯人が逮捕され報道されたなど)、その事件が語られるとき「尾ひれ」がつく可能性を危惧する。
被害者が匿名、どこに住んでいるのかもわからない、そうなったら好き勝手に書かれてしまう恐れがある。だってどこの誰と特定してないのだから。
もちろん、悪意のある尾ひれ(性犯罪では特に起きやすい)もあれば、全くの勘違いや、被害者を思うがあまりの「誇張」もあるだろう。

私は記事を書く上で、そこを出来るだけ排除したいのだ。
それは、書く上で自分自身への「ソースがない、報道されていない事実についての慎重さ」を課す意味もあるし、読み手に対しての誠意も込めている。
だから、ありとあらゆる過去の出版物(ネット上の情報についてもソースがないものはその旨掲載している)などを独自に手に入れて、できるだけ被害者家族本人の言葉を伝えている。もちろん、引用元も出来るだけ明確にしているつもりだ。
ただそれには、当然ながら匿名は有り得ない。匿名ならば、なんとでも書けてしまうからだ。それは、同じ意味であっても本当の声ではない。
実際に実名で掲載されている被害者、被害者遺族については、被害者遺族本人が過去にメディアに名前と共にコメントを出しているもののみだ。
私が近所を聞きまわって、隠している名前を捜し出して掲載しているのでは決してない。そもそも、無理。あと、被害者が叩かれそうなものについては、あえて匿名にしてるやつもある。

このマガジン自体、量刑や事件そのものについて推理するようなものではなく、その背景や登場人物の心の機微に焦点を当てるものであるため、どうしても関係者とのかかわりはなくして語れない。さらに言えば、その背景を知ることで、読み手はより感じるものが出てくるはず、という意味もある。
沖縄の事件でも、私はあえて美香さんの父親の名前を書いた。それは、伊地美香さんという少女は、伊地茂さんという父親の娘であり、世界でたった一人の尊い子どもであるということを尊重したいからだ。沖縄の少女Aではないのだ。

事件の詳細については、性犯罪が絡む場合は私のサイトでは事細かくほじくることはしようと思わない。よそのサイトに山ほどあるから、あえて書かないだけだ。
だからこそ、綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人では、その詳細はWikipedia先生に任せている。
しかし、どれだけ凄惨な目に遭わされたのか、これを知ると知らないとでは大きく違うのも事実だ。
裁判でも、同じ殺人であってもその内容の凄惨さ、被害者に与えた苦痛の度合いが死刑と無期を分けることもある(女性を殺害した後でバラバラにして下水に流した星嶋は死刑に値するほど残酷とは言えないから無期だけど、レイプして生きたまま焼き殺した服部純也は死刑)。
広島で、悪魔のペルー人・ヤギに殺害された木下あいりちゃんの事件で、あいりちゃんの父・建一さんが公開した手記は、まさにその「被害者の名前を伏せる」「性被害は内容を伏せる」ことへの疑問を投げかけたと言える。
ただ殺害されただけではない、どれだけ酷いことをされたか、「再発防止のために、真実を知ってもらいたい」「娘は『広島の小1女児』ではなく、世界に一人しかいない『木下あいり』なのです。もう一度あいりのことを思い出してほしい。」と父・建一さんは訴えておられる。
オウム事件で有名な紀藤弁護士も、酷い事件であるほどしっかりと伝えるべき、という立場であるようだ(2019年10月20日/そこまで言って委員会NP内での発言)。

もちろんその正反対もあって、熊谷で起きた連続殺傷事件では、裁判をすべて傍聴し、被害者遺族と交流も持っている小川泰平氏は、そのあまりに凄惨な犯行様態を知っているからこそ、おいそれと語ることは出来ないと発言しており、これもまた尊重されるべきだと考えている(同上/そこまで言って委員会NP内での発言)。

しかしながら、個別の理由もなく大きなくくりとして性犯罪だから、残酷だから内容を伏せる、名前を伏せる、それって一見配慮しているように見えて、実は性犯罪=辱め、=性犯罪の被害者は傷モノ、=一生辛いはず、性犯罪被害者は隠すべき存在、そういう風に決めつけている人の考えではないか、とも思う(すべてではない)。

忘れられない思いをしているご遺族に配慮を、とのコメントだったが、その通りと思う反面、忘れられることの方が辛くないか、私は勝手にそう思う。
というか、むしろ「そっとしておいて」とか、「なかったことのように振舞う」ことを奨励する「第三者」こそ、その被害者の存在、生きた証そのものを否定していることになりはしないかとも思っている。

父親の茂さんは、今でも犯罪被害者の立場から2016年に行われた九州・沖縄犯罪被害者連絡会(みどりの風)において実行委員長を務めるなど、泣き寝入りはしない、決して事件を風化させない、そして、同じ悲しみ、苦しみを体験した人々の支えとして活動されている。
それでも、私が書いた記事は、配慮がないと思われたのだとしたらそれは、私の文章力の無さゆえのことだろう。

もちろん、ご遺族本人がそう思うのならば、私もそれに従うのは言うまでもないことだ。

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