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丘の上の要塞都市ベルガモ

ミラノから北東へ電車でわずか1時間のところに、かつてヴェネチア共和国の西の国境を守る要塞都市があると言われても、すぐにはピンと来ないかもしれません。

今は、多くの中小企業の拠点として北イタリア経済の原動力の一つでありながら、その姿はほとんど中世のまま。

その町の名は、ベルガモです。

今回の新型コロナ大流行でイタリアの中でも特に多くの犠牲者が出た町として、日本でもベルガモの痛ましいニュースが流れました。
私たち家族は、東京から私たち夫婦が、そしてボストンから愚息が親族の待つミラノに行き、毎年クリスマスを祝います。数年前のクリスマス休暇中に、ミラノから家族3人でベルガモを訪れました。その折の美しいベルガモの姿に思いに馳せて今回の記事を書いてみました。

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ベルガモという町は二つに分かれています。
鉄道駅のあるチッタ・バッサ(下の町)は新市街です。19世紀の半ばからオーストリア帝国の統治のもと、工業都市として発展を遂げました。多くのイタリア人にっとては、「ベルガモ」と聞いて思い浮かぶのは工業の街のイメージです。

ところが、城壁に囲まれたチッタ・アルタ(上の町)は、文字通り丘の上に発展した旧市街で、中世の面影を残すロンバルディア州の知られざる宝石。

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ベルガモ旧市街の旧広場。
手前にあるのは1789に設置されたコンタリーニ噴水

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行政長官の館の裏にあるカンパノーネ(大鐘)=市の時計塔。
毎晩22時に、100回も鐘を鳴らす。360年間も続く伝統で、城壁にあるすべての門が閉鎖される時間を知らせた。

新市街から旧市街まで歩いて登れますが、便利なケーブルカーもあります。
ケーブルカーの駅から旧市街のPiazza Vecchia(旧広場)に出ます。面白いことに、そこに聳え立つラジョーネ宮殿(※)の正面に、ヴェネチア共和国の紋章である聖マルコのライオンがあります。よく見ると、チッタ・アルタを囲んでいる壮大な城壁に設置されている大きな四つの門にも、同じ聖マルコのラインのリリーフがあります。それはなぜでしょう。

(※)12世紀ごろから、自治都市時代のイタリア各都市では主に市役所兼裁判所として使われた建物を指します。たいていその都市のメイン広場に面しています。ミラノ、パルマ、パヴィア、マントヴァ、ヴェローナ、フィレンツェなどで見ることができますが、特にパドヴァはイタリアの中でも格別に美しいとされています。

イタリア語でPalazzo della Ragione(直訳:理性・正義の館)といいますが、日本語ではなぜかラジョーネ宮殿と訳されています

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ベルガモのラジョーネ宮殿。元の建物は自治都市時代の1198年に完成したが、1513年に起きた火事で一部崩壊したため、正面がヴェネチア共和国により改築された。そのため、ヴェネチア権力の象徴である聖マルコの有翼獅子のほか、窓にもヴェネチアの屋敷と全く同じ建築様式が用いられた。


ベルガモには長い歴史があります。
古代ローマの軍が北イタリアを制覇した時に、既に存在していました。
中世に入ると自治都市となり、ロンバルディア同盟の加盟都市として神聖ローマ帝国に抵抗した誇らしい過去があります。その後、1332年に北イタリアで勢力を増していたミラノ領主ヴィスコンティ家の領土になりました。ところが、ヴィスコンティ家がある戦に敗れた結果、ミラノ最大のライバルであるヴェネチア共和国に1428年から統治されるようになります。

そして、ヴェネチア共和国は、スイスとの交易路を確保するために、1561年から1588年にかけて、町全体を囲むべく6,200メートルにも及ぶ巨大な城壁(通称「ヴェネチアの壁」)を建設してベルガモを要塞化しました。
ところが、城壁ができてからベルガモを攻撃した敵軍が現れることはなく、さらに、第二次世界大戦でも空襲による破壊も免れたため、ベルガモの旧市街はほとんどそのままの姿で残りました。
フェッラーラ、ヴェローナ、パドヴァと並んでイタリアの県都として、中世の城壁が完全な状態で残っている数少ない都市の一つです。
その城壁は2017世界遺産に認定されました。

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ベルガモの旧市街を囲む城壁。戦争で破壊されることなく、
そして19世紀~20世紀の間多くのイタリアの街で実施された都市計画の破壊も逃れて今日も16世紀のままの姿で佇む。
photo: Ago76 / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)


ベルガモ旧市街には数々の文化財がありますが、その豪華さで人目を惹くのはコッレオーニ礼拝堂Cappella Colleoni(1472-1476)でしょう。
ここに、ベルガモの英雄、バルトロメオ・コッレオーニ(1395~1475)が安らかに眠っています。
コッレオーニの家系は11世紀半ばにさかのぼりますが、バルトロメオはヴェネチア共和国のもとで傭兵隊長として実績を上げたため、地元ベルガモの領主とされました。


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派手なコッレオーニ礼拝堂は12世紀のサンタ・マリア・マッジョーレ教会(写真左)に連結するように建てられた
photo: Rollroboter / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)

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コッレオーニ礼拝堂の正面は見事な大理石の装飾に彩られている

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コッレオーニ礼拝堂の隣にあるサンタ・マリア・マッジョーレ教会の赤獅子の門。赤いライオン像が支える円柱には、中世で貴重とされていたヴェローナ産のピンク大理石が使われている。教会の反対側に白獅子の門がある。
ちなみに、パルマの洗礼堂もこのヴェローナ大理石を使用している

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バルトロメオ・コッレオーニの三つのタマの紋章。そう、タマだ。
しかし、バルトロメオには8人の娘がいたが、息子がいなかったため、事実上名前を継承させることができなかった
photo: Giorces / CC BY-SA 2.5 IT (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5/it/deed.en)


ところで、ヴェネチアのサン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の広場を訪れたら、教会の右側に1496年に設置されたコッレオーニの騎馬像を見ることができます。

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ヴェネチアにあるコッレオーニの騎馬像。死後、「サン・マルコ」に
立派な騎馬像を設置してもらうと言うと約束をコッレオーニはヴェネチア共和国政府から取り付けていた。ヴェネチアで「サン・マルコ」と言ったら
もちろんあの有名なサン・マルコ寺院のある
サン・マルコ広場(Piazza San Marco)。ところが、軍人の英雄化を
許さなかった共和国としては街の宮殿が面している最大の広場に人物像を置くのは論外。それでも国に多くの戦勝をもたらした人物を
不当に扱うこともできず、最終的にサン・マルコ同心会(Scuola di San Marco=写真の左にある白い建物)が建っている
サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会広場に設置し、辛くも約束は守られた。確かにここも「サン・マルコ」のある広場・・・
ちなみに、この騎馬像の原型を作ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチや
ボッティチェリ、ペルジーノなどの師匠である
ヴェロッキオが手掛けたと言う。


イタリアで地元の食べ物が美味しくない町はありませんが、ベルガモも例外ではありません。
山がすぐ近くにあるため昔から牧畜が盛んで、現在も美味しいチーズが楽しめます。実はベルガモ県ではDOP(保護原産地呼称)認定のチーズは9種類ほどあります。
まずは、日本でもよく見かける「タレッジョ Taleggio」は、少しくせのあるクリーミーなチーズ。または、1380年の文献にも登場する、ゴルゴンゾーラの祖先とも言われている「ストラキトゥント Strachitunt」。そして、もともとは余った牛乳を消費するために作られたチーズでありながら、実は絶品の「サルヴァ Salva」。あのコッレオーニの大好物だったと言われています。

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サルヴァチーズ

ベルガモ県のワインで有名なのはモスカート・ディ・スカンツォ Moscato di Scanzo。わずか31ヘクタール程度というイタリア最小のDOCG(保証つき統制原産地呼称)エリアで作られている希少ワインで、1347年の文献にも貴重品として登場します。

最後に触れておきたいのは、1907年にベルガモに創業した「アニエッリ・アルミ工場」。現在でもイタリア全国の料理人が愛用する業務用アルミ製の鍋のメーカーとして有名です。実は拙宅でのイタリア料理教室、カーザ・ブルザでも導入予定です!

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日本の観光ガイドにあまり詳しく紹介されることがないベルガモですが、ミラノから日帰りで気軽に行ける歴史の深い美しい街ベルガモ、是非行ってみてください。

Forza Bergamo!  ベルガモ頑張れ!

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