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【陽キャ哲学】現実を分割する思想

『~とはなにか』『人はなぜ~なのか』という物事の本質に迫ることを趣旨とした書籍を読むと、その殆どが社会学的及び、生物学的に疑問となっている問題を探求するながれになっている。私が先日読んだ『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか(河出文庫)』という本においても、孤独の社会的な意味を探求し、後半の章で類人猿にも孤独があることを引き合いに出し、孤独の生物学的な意味を考察していた。私たちはヒューマンであると同時にホモサピエンスでもある。全ての社会的事象を社会学で説明することはできないし、生物学で我々ヒューマンを分った気になることは愚かなことである。人の人格や立場というのは一朝一夕で作り上げられたものではなく、超複合的な因果の集合を意味している。その意味からいえば、普遍な成功法則は存在せず、試行錯誤と結果論だけが事象と事物を形作っている。21世紀という時代に、哲学や社会学が陳腐化しないのは、科学が発達しきっていないからではない。科学はどこまでいっても複雑系を解きほぐす助力にしかならない。解明が進めば進むほど、進んだ道の隙間に余白が生まれ、そこに意味付けする定性的な学問が必要であり続けるだろう。事象や関係性の意味付けは、行き過ぎれば統合失調症的な病理になってしまうが、適度に使いこなせば人生に彩を与える思考法になることもある。このことは過去の記事で散々書いたので割愛する。関係性の妄想についてはあくまで理論的な話に過ぎず、現在進行形で友人関係や恋愛関係の構築に難儀している現代を代表する陰キャラの皆さんにはもう少し具体的な方法論が必要だと思い今回の記事を書くこととなった。

コムドット≒弱者男性

アメリカの心理学者マーティンセリグマンは、以下のように述べている。「脳による運動の指令と、視覚及び運動感覚のフィードバックとがほぼ完璧な相関を見せる『対象物』は自己となる。一方、そうした相関のない『対象物』は世界となる」。自身の行動が世界への干渉をたやすく行える状態を心理学用語で随伴性が高いという。干渉可能な世界は広ければ広いほど自己受容感が高まる。監獄では人の行動範囲が壁によって仕切られ随伴性が限定される。それは国家や地球という枠でも同じことが言える。我々も地球外に飛び出すことは可能だが、現実問題としてそれが可能かは別の話だ。我々は監獄でも地球でも限定的な世界を生きているという現実は変わらないが、随伴性が高ければ高いほど、我々に干渉可能な世界を生きることが可能になる。陽キャラの搾取によって陰キャラの精神的リソース(能動性)が奪われるという話は陽キャ哲学の最初の記事で記述した。この意見には多くの批判や反論が寄せられたが私の意見は概ね変わっていない。人間のみが持つ所有という概念は社会という前提を成り立たせるうえでなくてはならないものである。モノから始まった所有は、不動産や知的財産など無形資産においても主張合戦が行われ、ついには関係性にすら主張されるようになった。主人と奴隷の弁証法のように、必ずしも主人が勝者となる関係性は幻想であるとはいえ、世界に対する所有権の主張を諦めてしまえば、その時点で自信を弱者認定して自慰行為に浸るくらいしかすることがない。

老人の説教のようなことを言ってしまえば、Youtubeで他人の関係性を眺めて消費した1時間は、あなたを少しだけ弱者にする。Youtube鑑賞と映画やドラマなどの創作作品を鑑賞することとの間には大きな差異がある。Youtubeのような疑似的なリアリティをコンテンツから摂取しようという考え方は、リアリティの自給自足が満足に行えない者の自慰行為に等しい。同じ土俵に上がることは今すぐにでも可能であるのに自慰行為を繰り返すのは無意味だ。誇張表現ではなく全ての人間の日常はリアリティショーとしての価値がある。コムドットと陽キャ哲学普及協会の違いは一体どこだろうか。全くないというのが答えだ。しいて一つ挙げるならば、コムドットにはオリジナリティーと強い思想が欠けているという点くらいである。

常に被との予想の枠を飛び越える集団が、大衆の人気を集めてYoutubeという大衆御用達のプラットフォームの頂点で踊っているのは皮肉である。彼らの動画が面白くないと感じるあなたにはセンスがある。それは400万人近い彼らの視聴者よりもあなたの思想が尖っているという意味だ。唐突なコムドットへのディスはあくまでも一例であり、あなたの日常はコムドットの日常と同等の価値があるということを激励の意味を込めて伝えたかったのだ。最初の話に戻れば、『それは理論上の話に過ぎない。彼らにはたくさんのファンと金がある!!』と価値比較を行い、陽キャラであろうとする努力から逃げようとする人もいるかもしれない。まずたくさんの支持者を集めているという意味では、それは大資本の功績に過ぎない。大資本は多かれ少なかれ個人に内在するタレント性にマーケティングを行い、スター化する資本主義機構のことである。今回の話とは若干ズレるが、Instagram成功の裏話として、株式会社Meta(旧FaceBook)の創業者マークザッカーバーグが時価総額の低い時期にお得にInstagramを買収できた要因は、成功するかどうかわからない時期に目ぼしいベンチャー企業を大量に買収し、その中で生き残り結果を出したInstagramに資本を大量投入し巨大SNSに成長させたという話がある。つまりタレントという存在は、少しでも成功すれば雪だるま式に大資本から資本を投入される。大資本は運のよい個人を見つければ、後出しじゃんけんで彼ら彼女らの運で得た功績を最大化しようとするハイエナである。ハイエナとタレントはWin-Winの関係であることから、メディアという大資本の持つ権力とタレントは結びついていることが多いのである。

テレビのような旧式メディアでも、Youtubeのような新興メディアでも同じである。そこで輝くタレントの多くは大資本による後出しじゃんけんであることを理解すれば、成功は究極的には運であると割り切ることができる。運以前の土台を作ることがあなたにとって最も随伴性の高い地点であることが分かってもらえるだろう。『僕は弱者男性で、有名になりたいわけじゃなく友達や彼女が欲しいんだ!!』という反論が投げかけられそうなので、それに対しても回答する。友達や恋人を作る行為は全て能動性の獲得及び、能動性の奪取によって可能となっているメカニズムを理解すべきである。学生時代を思い出していただきたい。部活に入っていないA君とサッカー部で部長をやっているB君がルックスや性格など全く同じスペックを保持していると仮定して欲しい。B君の方が友人や恋人に恵まれる蓋然性が高いのは否定のしようがない。セリグマンのいうように随伴性の低い事物は世界であり、世界をどれだけ自己に取り込めるかということが、関係性においての自由度を規定する。関係性を多種多様に保持することはカジュアルな言葉で『出会い』と表現される。しかし、この『出会い』という文字面の所為か、空間や時間を表す受動的意味合いを含むように捉えられている節もある。1日を24時間という人為的な単位で区切ったことは日付というシステムの利便性によるところが大きい。では、出会いがある状態とない状態はどのような利便性に基づいて区別されるのだろうか。おそらくは、出会いのある時間や空間を提供、もしくは演出してお金を稼ぐ側の発想が消費者側に伝播してこのような区別が正当化されているのだろう。空間も時間も本来的には断続してなどおらず、全知の視点から観察すればワンネスである。

なぜ多様性は必要か

世界にはいろんな人がいるな~

ある関係性の中に入れば、比較優位は必ず生まれる。比較優位者になった時点であなたはある関係性において能力者であるわけだ。さらに自己と世界を定義すればするほど比較優位が増える。セカイAとセカイBはあなたに別々な優位性を与える。ウサイン・ボルトはグローバルという世界観において世界最速の男となった。しかし、私の地元の小学校にも世界最速のタカシ君が存在するかもしれない。ウサイン・ボルトとタカシ君という2人が世界最速の男であることは双方とも世界の真理でありえる。これは島宇宙的な負け惜しみではなく、タカシ君は事実として小学校の全校生徒から尊敬を集めている。2人の世界最速男は尊敬を集めるという実益を受けており、双方の存在はもう片方の存在を否定しない。唯一タカシ君が否定される瞬間があるとすれば、それはセカイが統一されたときである。セカイを単一化すれば、夥しい数の比較弱者が生まれる。価値の統合こそ、少数の優越感と大多数の劣等感を作り出す考え方なのである。資本主義は斜陽となった宗教の代わりに台頭し、全世界を資本の増幅というルールのもとに統一した。イスラム原理主義者のウサマ・ビン・ラディンですら、敵国の大統領が印刷された紙幣であるアメリカドルを欲したという話は、宗教が資本主義を超越する概念ではなくなったことの好例だ。我々が市場経済を前提として生活を営んでいる以上、資本主義を全否定するということは出来ないが、由緒正しい家柄や田舎の長男といった、今となっては意味不明ですらある価値は新陳代謝によって陳腐化した。かなり長期的な話ではあるが、性別、容姿、学歴、母国語などといった今でもまだ支配的である価値もいずれは陳腐化するだろう。とはいえ承認欲求は人間が持つ根源的な欲求であり、物欲を克服した後も激しく付きまとうだろう。

小さなセカイを保持していない人にとって、承認欲求は無限である。承認を得たいと思う対象が存在していなければ、ターゲットは漠然とし無限へと向かっていく。社会とセカイに境界線が引かれていれば、セカイの登場人物の過半数から承認を得ることも現実的である。欲しいものが漠然としているがゆえに手に届くところにあるはずのものが手に入らないのは灯台下暗しである。結局はコミュニティという有史より存在した共助システムが一番個人の承認欲求の欠乏を埋め合わせてくれる栄養であったという身も蓋もない結論である。コスパや合理性を抜きにして『所属する』という取り組みを行う勇気が必要とされている。多様性を否定して社会のメインストリームで暮らしたいというのは、競争社会を諦めていない者にとって当然の反応だ。しかし、人間は勝ち続けるか多様性を認めるかの二択しかなく。あなたが才能のない99%の存在であるならば、必然的に多様性に生きなければならない。弱者はその弱者性ゆえに自身の弱者性を許容できない。自虐は心に余裕を持つ者だけの権利なのだ。しかし自虐できない自己認知は不幸を生むだけだ。読者の皆様には、ぜひ自身の弱者性と加害性に目を向けて自虐を良しとして欲しい。

まとめ

価値観による世界の分割は、老荘思想と近しいところがあると思う人もいるかもしれない。しかし、老荘思想における評価主義を完全に否定するという態度には同意できない。私は競うという行為すら分割できると考えているので、評価や承認を求める行為自体を否定したいと考えているわけではないということにご留意いただきたい。陽キャ哲学は『何で戦うか』『どこで戦うか』ということを主体的に決定することを推奨するだけで、現実は胡蝶の夢ではないし、『ありのままで~』と歌いだすこともしない。ありのままとは現在の自分のことではない。どうなりたいかという願望が自己を基底しているので現在の自分こそが未来際の自分の夢なのではないだろうか。今回の記事は過去に書いたことの焼き直しと補足説明である点が多いので、未読の人は、ぜひ過去の陽キャ哲学体系の記事をご一読いただきたい。



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