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【異端者の哲学】京アニ放火犯 青葉真司を死刑にするな!!

京アニ放火事件の被告である青葉真司に京都地裁から死刑判決が下された。まだ地裁レベルの判決とは言えど、これは危機的状況である。青葉真司の行為を見れば誰の目にも彼の非は明らかである。建造物に不法侵入し、ガソリンで火災を起こして36人もの命を奪ったことは擁護のしようがない。しかし、本裁判で彼は妄想性障害が認定されており、この事実を考慮したうえでの死刑判決という結論には些か驚く。青葉真司は10年以上に亘って『自分を監視する闇の人物』や『京都アニメーションによる盗作』を大真面目に信じており、彼の中で現実と妄想の区別が曖昧になっていたことは精神鑑定士でなくとも容易に診断できる。彼は自分で起こした火災で、全身の皮膚の9割に重度の火傷を負った。これは自爆テロそのものであり、余程の強い確信がなければこのような行為に及ぶことはできない。瀕死の青葉ではあったが、上田敬博医師という火傷治療のスペシャリストによって一命を取り留め、こうして京都地裁での審理を終えることができた。彼は元々死ぬつもりで行為に及んだのだ。そう考えれば、被害者遺族、世論、青葉自身の三者にとって死刑という結論は納得のいくものなのかもしれない。しかし、私はこの判決は重大な人権侵害であると考える。青葉真司に対する人権侵害ではない。我々、日本人1億2000万人の持つ個性に対する人権侵害である。その理由を考えていきたいと思う。

責任能力とは何か

本裁判では、青葉真司に完全責任能力が認められている。完全責任能力とは、精神機能に全く問題がない状態ではなく『心神喪失』か『心神耗弱』の何れかの状態でないことを示す法律用語である。これらは精神判断能力が正常に機能しておらず、善悪を判断することが不可能、もしくは著しく困難な場合を指す用語である。つまり、何らかの精神障害により判断能力が低下していたとしても『悪事を働くつもりがあって行った行為』であると認定できれば、被告に刑事責任を認めて裁くことができるのである。ここで考えて欲しいのが、統合失調症や妄想性障害などの妄想を伴う障害においての善悪と一般通念に照らし合わせた際の善悪を同じ土俵で語っても良いのかという問題である。例えば、妄想の中で貴方は英雄であり、岸田文雄を殺さなければ世界が崩壊するという事実を知っているとする。岸田文雄を殺害した後に妄想が解ければ、貴方は一国の首相を暗殺した大犯罪者である。現実を歪める程の強い妄想が認定された時点で、そこに善悪を語ることは不可能だ。しかし、日本の司法では責任能力が判断できるという建前の下で人を裁いている。各種の犯罪行為に対して相応のペナルティのみを決定する仕組みにしないのは何故だろうか。人を一人殺害すれば自動的に死刑という仕組みにすれば、被告に判断能力があるか否かなどの判断を抜きに犯罪者を処理できる。そのような仕組みになっていない要因のひとつに国民感情や遺族の感情が正しい司法の在り方に参与できるという偽善がある。79歳の妻を海に突き落として殺害した82歳の夫に懲役3年が言い渡された裁判事例があった。夫は40年間妻の介護をしており、所謂介護殺人である。このようなパターンの殺人事件は情状酌量されて減刑になることが多い。簡単に言えば『悪いことはしちゃったね。でも貴方の気持ち分かるよ!』というやつである。裁判官という人間が、被告の行為と背景を社会通念という謎の指標に照らし合わせて、客観的に判断が出来るという思い上がりが、判決の不平等を生んでいる。正常な判断ができる状態で、出来心で一度の過ちを犯してしまう人間と、精神異常のために常習的に犯罪を繰り返してしまう人間、どちらか一方を社会復帰させるならどちらを選ぶだろうか。多くの人は前者を選ぶのではないだろうか。社会を構築する上で、司法と国民が最も排除したい存在は、判断能力が正常な犯罪者ではなく、心神耗弱状態の妄想症患者なのである。司法は真実を明らかにする場ではない。法学という複雑なプロセスでカモフラージュした現代の異端審問所なのである。青葉真司の死刑判決をぼーっと眺めている貴方も、もしマイノリティ側の思考や思想の持ち主であるならば、第二第三の青葉被告になるかもしれない。

客観性という幻想

フランスの政治哲学者モンテスキューは自著『法の精神』の中で、三権分立の重要性を唱えた。これは政治システムの基礎中の基礎であり、中学生の社会科の教科書にも載っている。特に司法権と立法権は同一の団体が保持すれば、自分で作った法律を自身で運用するという強大権力になってしまう。現代の日本では、立法は国民選挙で選ばれた国会議員が行うので、実質は国民が法律を作っている。国民ができることは法律を作る国会議員を選ぶことだけである。そうして作られた法律のひとつである刑法を使って犯罪者を裁くのは、司法に委ねられていなければならない。しかし、現実の裁判では国民感情が判決を大きく左右する。国民が裁判官の判断に干渉する手段として国民審査というものがあるし、何よりメディアで取り上げられるような重大な事件の裁判で国民感情を逆なでするような判決を出せば、国民からのバッシングが予測される。判断機構も人の集合体である以上は、世間体や客観的判断への要求を避けることができない。モンテスキューの三権分立は政治哲学の理想論としては美しいが、現実の大衆政治を反映してはいない。無垢な市民が安全で快適な生活を送るために、客観性に基づいて判断を下してくれる方が都合が良いと思うだろうか。そのような考え方には思想がない。ユダヤ人を大虐殺したドイツ労働党はドイツ国民の選挙によって与党になった。終戦後、ナチスはドイツの汚点とされ、象徴であるハーケンクロイツを掲げることさえも違法であり、ドイツ国内で掲げれば即逮捕される。ニュルンベルク国際軍事裁判において、多くの戦争犯罪者が極刑になった。第二次世界大戦前のドイツ人と現代のドイツ人では価値観が正反対である。ドイツ国民は戦前と戦後で全く別の精神性を持っているのだろうか。ドイツ人は何も変わらない。国体の変更とともに国民が価値観を真逆に変えただけの話である。日本やドイツに限らず、民主主義国家では有事の際に大衆が思想や個性を放棄することが求められる。団結や連帯は個人主義や個性との相性が悪い。人々が団結するためには、一人ひとりから共通の考えを抜き出し、それを一般意志として掲げる必要がある。平和な日本に暮らす我々には、経済という利害関係で繋がる人々しか見えていない。しかし、有事の際に資産や権力の再分配を議論することは団結を阻害する。危機が目の前にあるのだから、資産と権力を一点に集中して難問に立ち向かわなければならないのである。戦前のドイツでは未曽有の経済的危機であり、自国の危機を乗り切るためにヒトラーという代表者を大衆が求めたのである。そして我々は権力に弱いという性質を持っている。心理学者ミルグラムの電気ショック実験をご存じだろうか。被験者に対象の人物に対する罰として電気ショックを流す権利を与える。実験では電気ショックの電圧を強くしていくことが求められる。相手が失神するような強烈な電撃を流す段階になれば、多くの被験者は電撃を流すのを躊躇する。しかし、被験者に『強い電撃を与えても問題がない』というお墨付きを与える大学教授が許可を出すだけで、被験者は最高レベルの電気ショックも躊躇なく流すことができるという恐ろしい実験である。民主主義は国民の代表者と法律を決定するところまでは多数決が機能しているが、一旦決定がなされれば、国民判断はそれ自体が権力となり国民一人ひとりを縛る鎖となる。当然、国民の共通利害にどこまで納得できるかということには個人差がある。妄想性障害は現実事象と自身の妄想に相反があるため、そうでない人との連帯は難しい。これはなにも妄想性障害に限った話ではない。個性が際限なく細分化され続ける現代社会では、全ての個人がマイノリティにならざるを得ない。LGBTの主張と一般社会の利害対立が問題視されるが、私には他人事だとは思えない。男が好きか女が好きかという問題はグラデーションに過ぎない。男性の中にも他の男性に体も触って欲しくないというような人もいれば、性行為の相手として見ている人もいる。そしてその両極端の中心には、性行為には嫌悪感があるが肩を組むのは問題ないという人や男同士の友情は育んでいきたいと考える人がいる。LGBTの自己主張を抑制される運動を社会側が行うということは、男性として男性が生理的に嫌いな人の権利も迫害するということになる。表現の自由を使って個人同士が言論バトルを繰り広げる問答社会は素晴らしいが、社会が社会の構成員の誰にもフィットしない『一般』を求める社会はクソである。

異端者の哲学

統合失調症と社会の関係は現代の世相を如実に表している。統合失調症患者を差別することはポリティカル・コレクトネスが許さない。LGBTやブスやおばさん、出身地や考え方に至るまで公共の福祉に反しない限りにおいて思想と行動の自由が保証されるという建前で社会は運営されている。青葉真司は他人の生きる権利という公共の福祉を侵害した。その点において彼は裁かれるのだろう。青葉真司と妄想性障害の問題は表象になっている。重度の妄想という判断能力に影響を与える要素を持ちながら、その要素は判断材料から除外される。さらに一般通念という大義名分によって青葉真司予備軍たちへの一方的な暴力は正当化され続けるだろう。彼ら彼女らが社会から排除されて苦しむよりも、次なる青葉真司を作らないことが重要なのである。これを差別と呼ばずに何と呼べばよいのか。勘違いしないで欲しいのは、私は差別が悪だという主張がしたいのではない。差別は行われているという事実に対する理解が必要であると述べているだけだ。ディズニーの世界では高慢で自分勝手なヴィランが勧善懲悪の原理によって倒される。しかし、現実の世界を支配しているのはライオンキングのスカーや美女と野獣のガストンのような狡猾で政治力に長けるマッチョな人物たちである。彼ら彼女らは狡猾なため、学校教育に見られるいじめ問題を由々しき問題であるかのように避難する。確かに、いじめられている個人にしてみれば、社会の加害性は大問題であるのだが、マクロで見れば必然な事象である。個人的な問題は陽キャ哲学の実践に解決策を見つけてもらえば良い。しかし、社会問題としての加害と被害の構造は意識しなければ、偽善と大衆の倫理を壊れたスピーカーのように繰り返すボットになってしまう。

近代政治哲学はトマス・ホッブズによって形作られた。彼は神権政治に頼らない市民社会の構築を試みたのである。元々野蛮人として生まれ落ちたホモサピエンスが、神という共同幻想を失っても社会を円滑に回していける保証はなかった。そこでホッブズが考えた新たな神話がリヴァイアサンだ。リヴァイアサンは旧約聖書に登場する怪物で、鱗のようなものが生えた魚人であるが、その鱗の一つ一つは人間の意志であるとされる。国民一人一人がリヴァイアサンに自由をいったん委譲し、彼に我々が望む最適な政治を行ってもらう。ホッブスの描いた理想とは賢い君主による民意の吸い上げを前提とした君主政治だったのである。君主政治が陳腐化した現代社会でもホッブスの政治哲学は現代法に脈々と受け継がれている。万人による万人に対する闘争を回避するために、社会は異端を徹底的に排除する。青葉のような直接的被害を生む異常者にはレッドカードで一発退場を宣告し、行動力や思想のない異常者は真綿で締め上げるようにジワジワと殺していく。ホッブスの理論に異論を唱えたのがルソーである。彼は社会契約は君主と市民の間の取り決めではなく、各市民同士の間での契約であるべきだと主張した。ゆえに共同体の規範や倫理が個人を縛ることは不可能であり、異端者も異端者としての権利を主張することが可能なのである。上記で、裁判は被告人が誰であるかで判決の内容が変わるという事例を紹介したが、それは社会通念が決定して良いことではなく、あくまで被害者もしくは被害者遺族が加害者をどう思うか。またどのような決定を望むかということを主張して争うべきであると考える。刑法は復讐のために存在するのではなく社会の再起動を円滑に行うためのものだと主張するのであれば、遺族や被害者、まして世論などということは徹底的に無視して欲しい。感情論かシステムのどちらかを選ぶことも国民一人一人が担うべきである。それが筋ではないだろうか。

まとめ

無敵の人に死刑判決が下るたびに『奴には死刑以外ありえない』『税金で生かしておくな』といったコメントがソーシャルメディア上で散見される。しかし、それは違和感だ。コメントを書いている人も、街を歩いている人も大小の加害性の差異はあれど、みな青葉真司予備軍ではないか。異常だから生かしておいてはいけないというのであれば、貴方は貴方の友達や家族を殺さなければならない。複数人人間が集まれば、思考パターンが中央値から外れるものも出てくる。放火や殺人を行うまでウェットな心境に陥る人はそう相違ないであろうが、苦しさゆえに他人を加害するメンヘラは、我々が想像するより遥かに多い。青葉真司に更生の余地がないと断定するのであれば、メンヘラも不治の病ということになる。しかし、メンヘラは治る。うつ病の寛解理由として一番多いのは自然治癒である。環境と時の流れの影響力は、社会が思うほど小さな存在ではないのではないだろうか。


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