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ギャンブル漫画人生哲学 赤木しげるはデリダを超えたのか。

ギャンブル漫画は良いものです。自分はギャンブルはあまりしないですが、ギャンブル漫画から生きる上で大切なことを沢山教わりました。現実世界ではゲーム理論を用いて最大期待値を狙う選択を続ければ確率は収束していきます。故に過度なブラフや心理戦で勝ち続けるというのは現実世界では無理な話です。しかしギャンブル漫画はフィクションなので、確率論に頼るキャラクターは噛ませ犬として運の強いキャラクターに倒されるのが常です。人間の願望やロマンティシズムが強く反映された結果として『運>期待値』『機転>期待値』というパワーバランスが描かれることになっているのでしょう。

期待値について簡単に説明すると、下記の図のように出た目に応じて『1万円~6万円』の金額がもらえるギャンブルがあるとします。それぞれの金額が手に入る確率は等しく6分の1なので、6回サイコロを振れば21万円が手に入ることになります。サイコロ一投に対して貰える額は3.5万円なので、このギャンブルが1回3万円で出来るとしたら、期待値的に1回で5000円儲かることになります。当然、試行回数が少なければ損をする可能性もあるのですが、思考する回数が多いほど確率が収束していき、得をし続けます。

ギャンブル漫画において期待値は無視されます。期待値はロマンティシズムに欠けるし、なによりストーリーが成立しなくなるからです。期待値が成立しなくなるのは試行回数が少ないときか、行うギャンブルが複雑すぎて期待値を考えることが不可能なときです。キャンブル漫画は、このような特殊なシチュエーションを作り出すことで、運や機転などの要素が確立を上回るようにストーリーを組み上げていくのです。

機転という名のアウトロー

運と機転は、それぞれが別々のロマンティシズムです。我々が機転が利く人に対して憧憬の念を抱くのはなぜでしょうか。機転の利く人間は、無思考な人間よりも物事を有利に運ぶことが可能です。その姿が人間の潜在的な選民思想をときめかせるのです。機転が利くということは物事を本質でみるということなので、物事に対してメタ視点を持っていなければいけません。キャンブル漫画で言えば、プレイヤーとしてルールに則って戦うというよりも、ルールの穴を探したり、そもそもルールを無視したりするプレイヤーが機転の利く人にあたります。

有名な作品に『ライアーゲーム』や『哲也-雀聖と呼ばれた男』があります。ライアーゲームの主人公である秋山深一は元詐欺師という設定です。作品の冒頭でヒロインの神崎直が、元恩師と1億円を奪い合うというライアーゲームに巻き込まれてしまいます。神崎は馬鹿正直な為、『1億円を預かる』という恩師の口車に乗ってしまい1億円を簡単に奪われます。その際に助けを求めたのが元詐欺師の秋山なのですが、秋山はライアーゲーム運営のふりをして神崎の恩師からお金を騙し取るというシンプルな方法で1億円を奪還します。1億円を奪えというルールしか提示されていなかったので、恩師は暴力を警戒し貸金庫に預けたのですが、嘘の終了時間を伝えることで本当の運営より早くお金を回収したのです。

機転が利くということはアウトローであるということです。ここでいうアウトロー(outlaw)とは法律から外れた者に限った話ではありません。物事を構成しているあらゆる複雑性を超越した存在がアウトローです。人は生きる過程で様々なタスクに直面し、それらに意味付けを行います(後述しますが、物事への意味付けは非常に重要です)。アウトローはルールに対する主観的な意味付けを取っ払い本質だけを見ます。このアウトロー的な思考のことを『哲也-雀聖と呼ばれた男』に登場する房州(主人公の師匠)は『力』と呼びました。この漫画はぜひ日本国民全員に読んでもらいたいのですが、ここでは簡単に説明します。主人公の哲也が房州に勝負とはどういうものかを教わるシーンがあります。真夜中の神社で房州が哲也に対して、次に神社にお参りに来る人が賽銭箱にお金を入れるか否かを当てるように言います。哲也は『お金を入れる』を選び、参拝客が来るのを待ちました。明け方、初老の男性が現れ賽銭箱にお金を入れようとするのですが、

おめえのは所詮。。遊びなんだよ

老人の投げた小銭が賽銭箱に落下する前にそれをふんだくります。抗議する主人公に対して、房州は逆の立場でも勝つことが出来たと主張し、勝利の正当性を訴えました。房州の勝利の意味するところは、勝ち負けとは偶発性ではなく、あくまでも力(機転)の強弱によって決まるということです。ルールが言葉によって定義されている以上、明確な線引きが存在します。線引きが曖昧になる場合には、条文を足してルールを補う必要があるのです。法律が難解なのは、誰かが難解に作ったためではなく、言葉の解釈による抜け穴を全て潰す必要があるためです(憲法9条など解釈論が用いられていることもある)。力と向き合う必要があるという房州の主張には、私自身も考えさせられるところがありました。現代人の自立のバロメーターとして自責思考がありますが、自分も自責思考がどうしたら手に入るのか悩んだ時期があります。機転系のギャンブル漫画的に自責思考を言語化すると『物事の構造を理解し最善を常に探し求める』ということなのでしょう。

構造主義の限界

確かに格好良い思想ではありますが限界もあります。物事の構造を理解しようという取り組みは構造主義という名前が付いており、言語哲学や民俗学などで広く使われている考え方です。構造主義には多数の批判があり、完璧ではないことも指摘されています。フランスの哲学者ジャックデリダは『物事は白黒以外にもグレーゾーンが存在するので完全に定義することは出来ない』と構造主義を批判しました。これを脱構築といいます。先ほどの房州と哲也の問答では、哲也が敗北に納得したことによって房州の機転による勝利が意味を持ちます。しかし、ルール自体が曖昧だったこともあり、哲也が意地でも敗北を認めないということもできるのです。勝敗はコミュニケーションという曖昧な行為の上に成り立っていることを考えると、構造主義的な屁理屈で相手を出し抜ける場面はそんなに多くないのかもしれません。

構造主義は法律や物理など、長い時間をかけて定義を繰り返すことが最重要な分野、もしくは民俗学や社会学のように集団や集合を1つの情報に紐づけて考えることが出来る分野のどちらかでしか力を持たないのかもしれません。コミュニケーションや駆け引きなどでは、機転よりも運(偶然性)の方が重要になってきます。機転が構造主義だとすると、運はポスト構造主義という哲学と紐づけて考えることが出来ます。ポスト構造主義は前述のジャックデリダをはじめとする構造主義批判の哲学者たちによって確立されました。構造主義の哲学者たちが批判し陳腐化させた実存主義という哲学を再解釈した哲学でもあります。そのため理系的思考の強い構造主義に対して、文系的なエッセンスを多分に含んでいます。ではポスト構造主義的なスタンスのギャンブル漫画にはどのようなものがあるのでしょうか。

闇に舞い降りた天才

偶然性をテーマにしたギャンブル漫画と言えば、『アカギ 闇に降り立った天才』をおいて他にはないでしょう。この漫画は著者である福本伸行の別漫画『天 天和通りの快楽児』という作品に登場する老練博徒である赤木しげる(以下アカギ)の青年期を描いたスピンオフ作品です。アカギは初登場時は14才でありながら、ヤクザたちが屯する真夜中の雀荘に迷い込みます。後に発覚するのですが、アカギは海に向かってチキンレースを行い、そこから生還した命知らずだったのです(対戦相手は海に落ちて意識不明の重体)。アカギの人生哲学は『不合理に身を委ねてこそギャンブル』というもの。勝負の場での合理性を徹底的に排除し、狂気によって場を支配します。期待値による総合収支の黒字化が目的であれば、自分の賭けるものは少なく、相手から得れるものが大きいギャンブルが一番効率が良いことになります。しかしアカギはローリスク&ハイリターンを嫌い、常に賭けるものを最大に設定します。致死量の血液や片腕など取り返しのつかないものも平気で賭けます。

不条理こそが博打

かつて実存主義の文学者アルベール・カミュは『異邦人』という実存主義のメタファー的作品を書いた。主人公のムルソーが、アラブ人を射殺して死刑になる物語だ。裁判では射殺の事実確認は早々に終わり、ムルソーの非人間的な性格に対する人格攻撃が行われる。彼は母親の葬式で泣きもせずカフェオレを飲んでいたり、母親が生きている時分から養老院に顔を出さなかったりとかなり非人間的だ。キリスト教を信じれば、恩赦を受けられ死刑を回避できるということを司祭に伝えられても無神論を貫き死んでいった。ムルソーはアカギとよく似ている。実存主義とは世界の不条理とどう向き合うかを考える哲学だ。世界は無意味に存在しているのに、その無意味な世界でも生きる意味を探し生き続けなければならない。言い換えれば、偶然に主観的意味を与えることが、人間が人間として生きる意味ということである。

金儲けの合理性で考えれば、そもそもギャンブルではなく事業や労働でお金を稼いだ方が良い。ギャンブルという意味を欠いた行為で、不条理な死(損失)を避けて通ろうとするということ自体がナンセンスである。アカギの不合理を信奉する思想は哲也やライアーゲームのような漫画に対するアンチテーゼとなっているのだ。上述したが、実存主義はポスト構造主義によって批判的に継承されている。人間が人間的に生きるには、二項対立だけでは不十分であり、グレーゾーンの存在が必須となる。このグレーゾーンに当たるのが偶然性である。偶然性は意味と意味の間に存在し、定義することが出来ない。あなたの友達や恋人は、なぜあなたの友達や恋人であるのかを説明することが出来るだろうか。恐らく不可能だろう。人間の出会いとは偶然性の強いものであり、『同じ会社や学校だったから』などの一応の因果関係は求めることができても絶対的な理由にはなり得ない。1つ1つの偶然の出会いに、あなたが意味付けしたことによりそこに関係性が生まれたわけだ。

アカギは偶然性を最大限に堪能しようとして、ギャンブルの狂気の中で生き続けた(最後はアルツハイマーになり延命治療を拒否して死亡)。アカギはポスト構造主義の脱構築を自分の人生の全てを使って実践した。ある意味ではジャックデリダ以上の哲学者と言っても過言ではない。ここまで極端にならずとも、アカギから学べるところは多い。タイムパフォーマンス重視の倍速視聴をする人たち、マッチングアプリの条件検索で出会いを簡略化する人たち、Amazonレビューを見てからしか商品を購入しない人たち、偶然性を忌避する文化は着々と社会に浸透し、世界を退屈なものにしている。そんなご時世でも偶然性に意味付けできる実存主義的な人間であろうとすることは、あなたの人生に新たな充実を与えてくれるのではないだろうか。

まとめ

世間で乗り越えられたと考えられている前世代の思想哲学も、現代に再解釈されて再び息を吹き返す。哲学には可逆性があって面白い。そもそも哲学自体がアカギと哲也のようなポジショントークでしかないから、ある意味宗教に近い気もする。哲学好きな人の中には哲学から宗教を切り離して論理的学問であることをアピールしようとする人もいるが、要は人間の生き方についての学問であるから宗教的要素もあり、文学的要素もあると感じる。ここまで読んでくれてありがとうございます。それではまた次回、さようなら。

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