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今年の抱負vs人生の抱負(と若干の千葉雅也批判)

新年あけましておめでとう。皆さんは今年の抱負はもう決まっただろうか。難関資格を取る、年収を200万上げる、10㎏以上のダイエット、格好良い/可愛い恋人を作る、年間300冊の本を読む等々、何でも良いが新年1月は希望で満ちた目標が沢山決まる清々しいスタート地点だ。私は中長期目標に対する懐疑論者なので今年の抱負というものはない(超長期目標の必要性は後述する)。強いて言うならばYoutubeの収益化ライン(登録者1000人&総再生時間4000時間)を突破することである。

成功哲学や自己啓発の世界では大きな目標を立てることが素晴らしいと言われている。夢を描く力は思考を現実化するというナポレオン・ヒルのお決まりのフレーズである。しかし大きな目標を定量的に設定すると高確率で達成に失敗するので止めておいた方が良いというのが私の意見である。昨今の研究でヒトは失敗から学ぶことが得意ではない動物であることが指摘されている。臆病な雑食動物の類人猿の末裔である我々ホモサピエンスは、失敗を過剰に恐れるようにプログラムされている。自然界での失敗とはそのまま死に直結するのだから失敗を避けるために行動するのは当然の行動である。人間は小さな成功と成功の間に規則性を見つけて反復することで大きな文明を作ってきた。失敗を恐れるがあまり行動できなくなるというのは論外だが、仕組みによって恐怖心を克服するというのは森で怯えていた類人猿から我々ホモサピエンスが進化した証なのではないだろうか。陽キャ哲学を普及する中で、私の哲学が能動無罪、能動万能論のような言説であるという誤解を受けることがある。心外な誤解であると言いたい。私は根性論が世界で一番嫌いである。環境という追い風にも障害にもなり得るランダムネスをどのようにハックして人生を最適化するか、ということを私ほど深く考えている哲学者はいない。

成功体験は全ての基盤

起業家の堀江貴文が『失敗はパターン化できる。成功は偶然性が強い。だからガンガン失敗して失敗から学ぶ方が良い』というようなことを言っていた。言いたいことは理解できるが、パターン化できる程の失敗を続けても挑戦を辞めない精神性は誰でも持っている能力だろうか。上述した通り、人間の性質は真逆である。失敗をしたら次の失敗を恐れて臆病さが加速するというのが人間の精神構造である。人は失敗を学習すると、最低限の行動で結果を出そうとするようになる。サンプル数が少ない(=成功も失敗も偶然性が高い)状態で出た結果には本来再現性などないのだが、人間はそこに意味を見出そうとする。人間は確証バイアス(*)という認知バイアスの一種で常に知覚が曇っている。確証バイアスにかかることは人間であれば避けようがないが、少ない行動から生まれた成功/失敗体験は確証バイアスを強くし、行動しない夢想家を作り出す。皮肉ではあるが『行動しろ』という助言は行動しない人間を増やすという結果になる。自身の体験を過度に一般化してしまう心理状態を精神科医アーロン・ベックは認知の歪みと表現した。成功体験を大量に積めるのであれば、成功体験で認知が歪むので自己肯定感に影響を与えることはあまりない。問題は自身の失敗を過度に一般化してしまうことである。

*仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと

ウィキペディア

『ただしイケメンに限る』というネットスラングがある。イケメンと不細工を比較するミームである。イケメンとブ男の服を入れ替えてイケメンなら何を着ても様になるので、ファッションには自己改善効果はないという冗談であるが、これを本気にしている非モテ男性はかなり多い。この画像は服を取り換えただけで表情や髪形などの諸要素の改善を完全に無視した画像であるが、そのことを理解出来ていたら認知は歪まないだろう(笑)

論理の飛躍も認知の歪みの一種

話が脱線したが、人間には大なり小なり認知に偏りがあり、その偏りは経験によって醸成されるという説が有力である。小さな成功や勝利などの経験を行動力に転換するという方法論が、地味だがもっとも効果が高い。想定される反論としては『失敗からの学習を行わないと同じ失敗を繰り返す可能性がある』というものが考えられる。しかし、あなたが去年と似たような抱負を今年も掲げ続けているように、人間にとって失敗や挫折からの学習効率は高くない。冒頭でも述べたが、生物にとって失敗とは死を意味する。人間界には安全が確保されているものの、原始的な行動原理は動物と同じである。自然界では失敗は敗退を意味していたので、致命的な失敗という咎を背負いながら生きるということが想定されていない。ゆえに、失敗の事実と、次に発生するであろう失敗の可能性は自尊心という高度に文明化された心理的機能によって封殺される。失敗が常態化することによって失敗を失敗と認識しなくなる、もしくは過剰な被害者意識により環境と能力を混同する。この行動抑制現象は学習性無力感と呼ばれ、精神的発育とともに改善が難しくなる。

下記の通信教育事業者が2016年に行ったアンケートを参照して欲しい。学校段階(小→中→高)が上がるごとに内発的動機付けで勉強する子供の比率が少なくなる。小学4年生~6年生の児童では約72%が、純粋な知的好奇心を学習理由にしているが、高校生では好奇心から学習する生徒は53%に低下し、逆に進路を理由に学習活動を行う生徒の割合が増える。人間は社会的動物なので当たり前と言えば当たり前なのだが、極端な言い方をすれば、努力とは社会に認められなければする意味がない。承認欲求のために努力(この場合は学習活動)を行っているにも関わらず社会に認められなければ、学習自体が(実際的に意味があったとしても)無意味なものに感じられる。つまり失敗を重ねるということ自体が、成功という人参を頭からぶら下げられている状態に限って内的動機付けになり得るということである。堀江貴文に限らず多くの成功者は自身が数え切れない成功体験を積んでいるという生存者バイアスを無視して、行動の有用性を説いてしまっているのである。ギリギリ成功できるラインを分析して目標に設定する冷静な自己分析力が行動以上に求められる。

株式会社ベネッセコーポレーションの学習に関するアンケート


『海賊王に俺はなる』という定言命法

これは目標の宣言ではなく定言命法

イマヌエル・カントの定言命法を知っているだろうか。道徳的実践において、命令形で理性に与えるルールのことを定言命法と言う。道徳的な規範は、条件付きで行うと例外を作ってしまい守らない場合があるので、道徳規範は『~すべき』『~するな』という無条件のルールとして運用されることが正しいという理論である。人間の理性を絶対視するカントらしい考え方ではあるが些か理想主義的である。例えば『人を殺すな』というルールを定言命法として運用すると正当防衛が成り立たなくなる。道徳規範として心で持つことは可能だが、法体系に組み込むことは出来ない。神という言葉を使わずに道徳規範を語ろうとする姿勢が近代の哲学者といったところである。

私は中長期目標の設定には意味がないと言った。成人の集中力は平均50分程度しか持たない言われている。人間はそれが内的動機付けだろうが、外的動機付けだろうが、モチベーションだけで1時間以上のタスクに集中して取り組む機能を持ってはいない。なぜならモチベーションの発現自体が短期的な目標を達成するために用意された脳内作用だからである。人間の脳は身体または精神の需要を獲得するに際して、ドーパミンという脳内物質を報酬系という脳内神経ネットワークに放出する。報酬を得たときに得られる快楽を前借して実際に報酬を得させようとするのである。性欲は生物にとって偉大な報酬であることは間違いないが、それが10年後の話では脳は性欲の解消を報酬と理解しない。生死にかかわる食欲や睡眠欲なら尚更である。目標の達成によって得られる報酬は常に短期的に考えなければ、人間の行動は説明できない。大学受験において模試を何度も行うのは、受験者の能力測定の意味合いもあるだろうが、成長のカタルシスを道半ばで味わうという意味合いもある。中長期目標とは短期目標の集積体であり、毎日変更するべきものである。毎日変更するなら中長期目標ではないというパラドクスが発生し、中長期目標は存在意義を失う。必要なのは短期目標と超長期目標(人生の指針)のみである。人生の超長期目標こそ定言命法なのである。

定言命法は、その成り立ちからしてエゴイズムと道徳を切り離すために提唱された概念である。カントの時代には万人が従うべき普遍の道徳規範の存在が信じられていた。しかし大きな物語の崩壊などという大層な言葉を使うまでもなく、善と悪が相対化されたことは全ての人間に周知の事実となった。エゴの声と道徳は融合しているのである。『相対的真実=主観的解釈』という定式は崩しようがない。しかし相対化された真実も解釈された現象も、簡単に移り変わってよい性質のものではない。定言命法は全ての行動規範の頂点であり優先順位付けは定言命法の順守が可能かという指標において行われる。内なるエゴの声を定言命法的に聞き入れ物語化するということは、ポスト構造主義的な現象的社会の再解釈である。先日、哲学を5分で解説する動画をアップした。5分動画なのでサラッと観て欲しいが、記事の読了を邪魔しないために概要を書くことにする。哲学とは現象をインプットにして、その本質を探究する学問であると述べた。

この動画に対して待ったを掛けたのが小説家の千葉雅也である。私の動画に対する千葉雅也の回答は以下の通りだ。現象と本質の間に個人が介在し、本質を主張し合うゲームであるという私の主張はお気に召さなかったようだ。千葉雅也は、哲学は個人という解釈の媒介を排除して、ひたすら「どうであるか」だけを記述する学問であると発言したのである。この人は本当にポスト構造主義研究の哲学者なのだろうか。正と誤というバリバリの二項対立の論点に立って『学問ではないもの』を否定神学的に求めようとしている。解釈と社会が世界の関係性であるということの証明が、彼の学問に対する態度でなされてしまうという皮肉な結果になっている。

話は戻るが、昨今の日本ではワンピースのモンキー・D・ルフィやレペゼン地球のDJ社長のような大言壮語なキャラクター性が支持を集めている。刹那主義的で日本人の国民性とは合わなそうであるが、彼らのような定言命法的な物語に沿った行動規範(後者は本当にそうであるかは不明)に畏敬を持つのであろう。大日本帝国や神州不滅という大きな物語に半強制的に踊らされた過去のトラウマから日本人は物語を軽視するようになった。物語はエンターテイメントではあっても自分が生きる人生とは隔絶された概念であったのだ。陰謀論者が増えてきていることは別のnote記事でも述べたが、AIやシンギュラリティといった人間存在の意義を問うような概念や事象を目の前にして、我々は終わりなき日常を探しているのかもしれない。

まとめ

比較という競争には必ず妥協が存在する。『上には上がいる』という言葉を本当の意味で否定し続けられる人などいないだろう。比較優位、脱成長、脱構築、評価経済社会、フェミニズム、脱学歴、アンチルッキズム、メタバース、いいね2.0、加速主義、論破王、極上の孤独、アーティスト、これらは全てがルサンチマンだと言える。言えるが、人間という存在自体が妥協点とその解釈によって成り立っている。我々は生まれながらに誰かに負けているのである。誰かの作った価値に甘んじるということ自体が奴隷の発想であるということは度々述べているが、何度述べても述べ足りないぐらいには日本という国の絶望感は凄まじい。不景気は日本に限ったことではないが、日本では底辺の連帯は皆無であり、上級国民には父性も母性もない。ここまで連帯しない国も珍しいのではないだろうか。宮台真司も言っているが、日本では沈みゆくタイタニックでポジション争いをしているようなものだ。既存の価値が外側から剥がれ落ちているのに誰も叫ばない。東大に入学しても三菱商事に入社しても、日本という国が不景気であれば彼らも相対的に貧乏になる。価値を更新し続けられる人材は、ネガティブからは生まれない。ネガティブは既存の価値と比較してネガティブなのだから。小さな成功体験がルサンチマンであろうとあなたという物語に貢献することには間違いがない。



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