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[読書の記録] 大塚英志『物語消費論改』(2013-03-07読了)

大塚英志「物語消費論改」
を呼んだ。

 大阪出張で移動する前の適当買いだった。

 ご存知の向きには当然だが、大塚英志は東浩紀や福嶋亮大や宇野常寛なども引用しているポピュラーカルチャー批評の大家で、この人の一連の業績が無ければゼロ年代批評もなかっただろう、というレベルの人である。
 特に東浩紀が唱えて一斉を風靡した「データベース消費」はこの人の「物語消費論」を批判的に継承する形で展開されている。だから存在はずっと知っていたが、 原著を読んだことは実はなかった。

 この本は大塚氏が、近年の論壇や世間一般の動向も踏まえつつ、自身が80年代後半〜90年代序盤にかけて書いていた「物語消費論」と呼ばれる一連の論考を振り返り、清算する目的で書かれたようだ。
 清算、というとき、大塚氏の前提にあるのはwebの普及である。web以前にマーケティング理論として仮説された「物語消費論」は、それが可能になる環境としてのwebを当然想定していなかったが、むしろweb以降の現象を説明するときに援用が可能であるという。
 物語消費論は、「コンテンツの受け手の想像力を刺激する、単独では意味を完全に充足させ得ないような情報の断片」を与えることで発動する。ビックリマンチョコにおまけでついていたシールやソフトバンクの犬のCMなどは、ひとつのブランドの枠内で情報の断片を受け手に与えて行く。ただ、断片をただ接合して行っても完成された全体には至れない。
 例えばソフトバンクのCMでは、固定キャストが演じる家族による断片的なシーケンスが、「どうやらこれらは連続しているようだ」と受け手側に想像させるに足る形で与えられるが、それでも彼らが置かれた世界の設定の全体像は決して見通せない。また、エヴァなどでも、パッケージ化されたアニメの作中に空洞や空白を生じさせておくことで、情報の断片を与える手法が採用されている。web上に無数に存在する不確かな情報や噂は、こうした断片に相当する。
 受け手はその断片にプラスして、自らの手元に既にある、いわば有り合わせの情報を加え、解釈し、世界像を構築して行く、つまり断片を補填していくのである。webの世界では、検索や情報のリンクの機能が極端に進化していることから、このプロセスはweb上では、ある固有名を検索エンジンに入力すれば関係あるキーワードが勝手に表示されるように、半ば自動化されている。

 コンテンツの受け手側にはコンテンツが置かれた世界像の「全体」を知りたいという欲望が生まれ、それを補完する情報の断片が与えられつづけることで、その商品を購入する欲望に転嫁させられる。
 ネット上でAKB48のゴシップをかき集め、あるいはブログや2ちゃんへの書き込みで発信して行くことで、NTTやプロバイダに料金を払いつづけるのもまた、物語消費の一例であると大塚氏はいう。

 このような商品セールスのマーケティングこそが、狭義の「物語消費」である。物語消費は一定の段階に達すると、創作行為や社会的運動を擬態するケースがある。
 つまりいわゆる二次創作であり、それ自体新たな情報の断片となって機能し、消費者相互の自発的な動員とでもいうべき事態が生じる。webに置き換えればこれは「炎上」であり、フ●テレビへの反韓流デモのような社会運動と化したりもする。
 大塚氏が強調するのは、現在の日本はこのような社会運動化の段階が極めて作用しやすい状況にあることである。ポピュリズムの暴走に対して右も左も、怯えているような困惑を示すが、それが従来のポピュリズムやファシズムと違うのは、民意なるものの物語消費論的自己増殖によって、独裁者が不在の、大衆自身による自己動員が合理的になされる事態が起きているからだという。
 民意や公共があたかも形成されているような錯誤の中にわれわれが陥っていることは否定しようがないと大塚氏は述べる。日本では今、物語消費論的現象として「日本」や「愛国」 という大きな物語が、ポストモダンを通過しながらもきわめて凡庸な形で復興している。

 決して捉えようのない「全体」に漸近しようとする大衆の消費性向により、現代日本において擬似的な公共性が生起しているというメッセージは、小熊英二氏らが述べられている社会運動論とまるで逆行するようだが、個人的には大塚氏の批判を支持したい。
 なぜなら、小熊氏の標榜するような「とりあえず動こう!君が動けば社会が変わる!」というイデオロギーこそが、日本におけるエネルギー問題や領土問題をめぐる感情論を巻き起こし、一部のクレイジーピープルとマスメディアに先導される形でドミノ倒しのような衆愚化を招いていると思うからだ。

 さらにweb空間における語りや思考の氾濫は、その集積によって作り上げられる集合知がひとつの公共圏、すなわち多数的なものがそこにおいて共有の諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間のなかに包摂されないという事態を招いている。いかなる公的領域とも関連していない大衆の「俺はこう思う」というような自分語りが欲望のままにwebに解き放たれることにより、政治的空間でのヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変えているんじゃないか。
 その意味で、自身が20年以上前に提唱した理論によって見事に時代診断をしてみせた大塚氏は、ドヤ顔して然るべきかもしれない。

 一方、限定的な文化表象だけを手がかりに、物語消費論という単一のスキームで社会経済の趨勢と大衆の欲望を一気通貫に語ってみせる姿勢こそが、大塚タソ本人がオワコン宣言しているポストモダニズムという饒舌を思い起こさせるのも事実である。
 ようは他の批評理論と同様、物語消費論も、個々のケースの分析の細部にこそ本質的な価値が宿るのではないか。

 では文化批評としての物語消費論はどうかと言われると、個人的には、うーーんと唸らざるを得ない。
 宇宙戦艦ヤマトや村上春樹、ジブリ映画などを「物語消費論」によって微分してみせており、こうしたコンテンツにおいて架構されたサーガ(=年代記)がだんだん脱政治化してきてまっせ!という議論は確かになるほどと思わせる説得力がある。
 あるんだけど、で?という部分があるのも確か。で?そういうカルチャーを外側から観察して語っているオマエさんは何者なんですか?というところに答えていないのが、2012年の批評としては、少し古くてナイーブと感じられる部分かと。「外部」が無くなったのが21世紀という時代である。
 こういう再帰性は宇野常寛らのほうが遥かに明確に書き手の問題として受け止めているし、逃げること無く著作の中で答えていると思う。あと、マーケティング理論であるからには、コンプガチャの問題こそを扱ってほしかったというのもある。こういうカードゲーム的な商品形態って、大塚氏が好きなビックリマンチョコから、ポケモンを経てもう一段階の洗練を経てると思う。そこを大塚氏ならどう切るかというのを読みたかった。

 本の後半には、90年代に全盛期の大塚氏が書いた文章もいくつか載っているんだけど(編集者乙)、なんつか、なぜかこれらはいかにも大学センター試験に出題されそうな文体なんだよな。本当に出題されたりしたんだろうか。

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