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30歳と結婚と父の話

なりました、30歳。
これ以降歳を数えなくなりそう。

しました、結婚。
一部の友人達には先に伝えていました。

結婚相手は音楽をしている人です。
ギタリストの父と結婚した母からは
「音楽家の1番はどこまでいっても音楽だからね」
と言われました。

今日は父の話をするぞ〜〜〜
ちょっと長くなります〜〜〜〜〜

父とはあまり仲が良くなかったです。そして、悪くもなかった。
そもそも会話をすることが無く、家に居るときは食事や入浴等必要最低限の行動以外常にギターを弾いている人だったので。

そんなことからもちろん父との思い出はかなり少ない。父は寡黙な人で、幼少期の私にとってはそれが威圧的に感じられて距離を取っていた。
子供心に愛されていないと思っていた。

あとめちゃくちゃアル中。
打ち上げ終わり等にベロベロに酔っ払った状態で帰ってきては母を困らせていた。
かなり酒癖が悪く、酔っているときはかなり口が悪かった。父は関西出身で、キレてる時の関西弁が怖さに拍車を掛けた。
父が酔って帰ってきた時はいつも寝たふりをして、嵐が過ぎ去るのを待つように布団の中に隠れていた。

流川で全身血だらけで発見されたこともあった。なんとか生きてた。
私が当時幼かったこともあり、母は私と兄に
「転けたんだってさ。」
とだけ伝えた。傷の場所や当時の父の状況、
そして酒癖の悪さからヤンキーと喧嘩にでもなったのだろうと今では思う。転けただけならそんな事にならんやろってレベルだった。
ほぼ意識なかったのにギターを守るように抱えていたらしくて、母は呆れていた。

小学生の頃、クラスメイトのまりなちゃんが自分の父親のことをパパと呼んでいたことに憧れて、私も父をパパと呼んだことがある。
「それ気持ち悪いからやめてくれへんか。」
と言われて速攻やめた。もっと言い方あるやろ。
その日以降オトンと呼ぶようになった。小さな反抗である。

私が中学に上がるタイミングで、父と母は離婚した。そしてその一年後に、地元大阪で父が亡くなったと電話があった。
父は亡くなる2日前に大阪の実家に帰っていた。

その日家族3人で大阪に向かった。通夜でも葬式でも、泣かないようにした。泣いて良いのかわからなかった。

葬儀が終わり、父が保有していた大量のギターや他の楽器達をどうするかという話になった。
私も兄も一切楽器に興味が無かったので、それぞれ一本づつだけ貰うことにした。兄が譲り受けたのはマニュエルレジェスというクラシックギターだった。私はパーカーというエレキギターを貰った。「安いけど良いギターなんや」と生前言っていたらしい。
なんやかんやでそれから1年ほど経った時に、母からこんな提案をされた。
「兄に渡したお父さんのレジェス、せっかくだから⚪︎⚪︎さんに弾いて貰おうとおもうんだけど。楽器は弾いてあげないと可哀想だから。そのまま家で放置しとくのも良くないし。」

⚪︎⚪︎さんは父の友人のギタリストで、今も活動されている方だ。お貸しするという形でお渡しした。
貸すとはいっても返してもらう予定も無いし、せっかくだしレジェスに挨拶しておくかと思いギターケースを開いた。
このケースを開けた状態ではたまに眺めたりしていたが、その日は最後ということもあり、弾けもしないのにレジェスを取り出して弾こうとしてみた。
右利きだとどっちがネックなんだっけ、と携帯で調べながら持ってふと目線を下げると、ボディ部分にシールのようなものが貼られていた。

私と兄の幼少期の写真だった。

4〜5歳くらいの頃の写真で、かなり色褪せていた。それを見た瞬間、忘れていた父との思い出が蘇ってきた。
兄と2人でテレビを見ていたらピクミンのCMが流れてきて、それを歌っていたら父が無言でギターを弾いて合わせてくれたこと。
私が魔女の宅急便が大好きでジジのぬいぐるみをずっと持ち歩いていたら、テーマソングである
「やさしさに包まれたなら」のソロギターを弾いてくれたこと。
寡黙で威圧的なのではなく、口下手で不器用なだけだったこと。
ちゃんと愛されていたこと。

葬式で泣けなかった分、大声で泣いた。
呼吸できんくなるくらい泣いた。

そんなこんなで「音楽やってみるか」てなって高校からドラムを始めたが、シンプルに才能はなかった。受け継いでてくれよと思った。そう上手くはいかんもんだ。でもドラムの先生は父の知り合いだった。世間は狭い。

なんやかんやでドラムは大学まで続けて、軽音部に入って楽しく過ごした。軽音部を通じてギターを弾いているT先輩と知り合った。

そこから10年くらい早送りします。

ある日未だに仲良くしてたT先輩とヲルガン座でご飯を食べていた時に、オーナーのイズミさんが
「△△さん元気?」とT先輩に聞いた。
△△さんはT先輩のお母様で、その方も音楽をしているらしい。それを聞いて
『私の父も音楽してたんです。知り合いだったら面白いですね。』
と返した。その後確認してもらった所、知り合いどころか結構仲の良い友人だった。そんなことある?
母にもそれを伝えると
「△△さん!?お香典も頂いたんよ。あらまぁ〜」と驚いていた。世間は狭い。

その後△△さんにもお会いして父の話を聞いた。
「面白い人だったんよ〜。女だけのイベントに女装したら参加できるのかって聞いてきたりね。」
私の知らない父の姿。まじか父。弁えてくれ。

この歳で急に父の解像度が上がってきて、もっと知りたくなって12年間音信不通だった大阪の親戚にfacebookから連絡を取り、父の遺骨がある場所を聞くなどした。とても好意的で、こちらから連絡出来てなくてごめんなさいねとまで言ってくださった。

あとイズミさんが父のお弟子さんと知り合いだったことも伴明した。ニシウラさんという方。
「この日にここでニシウラ君がジャズライブするみたいだから、行ってみんさい。」
と言われ、行動力の鬼と化していた私は1人で薬研堀にあるジャズバーに行った。

正直めちゃくちゃ緊張した。ジャズバーおしゃれ過ぎたし。あとは私の知っている父がヤバすぎて、お弟子さんにめちゃくちゃ迷惑かけてて嫌われてたらどうしようってずっと考えていたり。

ライブ後に声をかけ、自己紹介したらめちゃくちゃ驚いていた。とても良い人だった。父は嫌われていなかった。多分。おそらく。きっと。

今度はそのニシウラさんから
「師匠のギターが置いてあるお店があるんです。鉄板焼き屋さんなんですけど、良かったら見に行ってみませんか。」
とお誘い頂き、ニシウラさんと私とT先輩の3人で行く事にした。
オーナーさんにめちゃくちゃ驚かれた。
「あいつ子供おったんか!?!?」と。
この方もとても良い人だった。ただ父にはだいぶ迷惑をかけられていたっぽい。申し訳ない。

T先輩のお母様である△△さんもそのお店をよく利用されるみたいで、その日店内には△△さんの知り合いの自称ラッパーがいた。
結構酔っていた。

ラッパー「yo、△△の息子♩△△の息子♩」
T先輩「(無視)」
ラッパー「マザファカー」
T先輩「それはやめろ。」

あの人は何だったんだろう。

父のギター達をたくさん見せてもらって一緒に写真も撮った。
T先輩がそのギターで「やさしさに包まれたなら」を弾いてくれた。泣いた。

小さい頃は「父にとって1番だった音楽」が大嫌いだったけど、音楽で繋がった縁のおかげで12年越しに私が知らなかった父の話を聞けた。
本当に人生何があるかわからんな。

そしてT先輩が今の旦那ってワケ⭐︎

籍は入れたし苗字も旦那側のにしたけど、住まいは別々にしました。
週末だけ一緒に過ごす週末婚というのを選択しました。T先輩にはずっと音楽を続けてほしい。
楽曲制作やら色々と個人の時間が必要。
私も1人の時間が必要な人間なのと、人間と長期間一緒に過ごすとしんどくなることが発覚しまして
そういった点でお互いにかなり都合が良かったので。

じゃあなんでわざわざ籍入れたんや事実婚でもええやんって質問されたこともあったけど、めちゃくちゃ雑に説明すると
「籍入れたくない理由」が別に無かったから。
もっと色々あるけど割愛します。

自分の人生と今の縁を振り返るのも兼ねて今回のnoteとなりました。
そういえば、あのレジェスはいまT先輩が弾いてくれています。
まさか返してもらうことになるとは。

仲良くしていただいてる方々へ
今後ともよろしくお願いします。
今年はもっと健康面に気を遣いたいです。

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