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子育ては親子にとってサバイバルだ

夫に子どもたちを託児して仕事をした休日の
翌日曜日、夫は待ってましたとばかりに、
いそいそとゴルブコンペにお出かけになった。

わたしは、朝5時に起きて6時に子どもと
小学校に行ってラジオ体操係の最終日を
勤め上げ、しばし放心。

んが、子どもたちは退屈極まりなく、
よっしゃ、母がいっちょ、アクテビティを
提供してやろうじゃないか!

と、日も陰ってきた午後3時に美術鑑賞ワンオペ小トリップ構想を思いついた。

美術館のある駅までは、途中の駅で乗り換えもあるけれど、同じ鉄道会社の路線なので、公共交通機関を使ってワンオペで3児を連れて出かけるハードルはまぁまぁ低い。

陽射しの緩やかな時間を狙って、駅から徒歩8分くらいの美術館に出発することを母は宣言したところ、子どもたちも賛同した。

公共機関の中では、静かにすること。本や音のならないおもちゃを持って電車の中で時間を過ごすこと。騒いだらすぐに帰ることを約束して、事前準備は完了だ。

その美術館では、とある絵本作家の原画が飾られている。わたしは、保育園にあったその作家の絵本を毎日眺めては、その世界にどう入り込もうかしら、と本気で考えていた。

グリム童話のように、ちょっと怖くて美しいお話。

グリム童話などの昔話は、子どもたちに貞操などの道徳観を刷り込む装置でもありますから、そら、怖くしますわ。

白雪姫は、継母ではなく実母からのネグレクト、ハーメルンの笛吹き男なんて、人さらい。

恐ろしい話なのだけど、人は恐ろしさを楽しむ生き物で、ストーリーに入れ込むことはお話作りの碇石である。

というのも、昔話にはセオリーがあり、昔話研究には3のルールとか、対比とか、文学として研究するとかなり面白いのだということを大学時代の授業で学んだから。

そんな感じで、子どもたちには「小人さんの絵を観るよ。ほら、この絵本の絵だよ」と前フリ学習をして出かけた。

会場内は、大人のシングル女子ばかりで、わたしたちのようなファミリー層は皆無だった。

すぐに、午後の静かな大人の時間を子どもが邪魔をしているのは否めないことを悟る。

何故なら、少しでも子どもらが絵に近くとすぐに監視の目が飛んでたり、あれやこれや、目線が厳しかったから。

絵には触らない
壁に触れない
館内では静かにする

というお約束をしてからの入館で、騒いだら速攻、外に出します。と、子どもたちに伝えて、さらに、それでも、ワンオペで美術館はハードルが高いので、子どもに優しい美術館を選びます。

この美術館は子どもに優しく、地域の子どもたちは無料。

でも、今回は、コンセプトは大人女子のメルヒェンなのだろうから、正直、子連れには厳しい環境であった。

子どもがおもちゃを展示ケースの上に置き忘れた時には、「他の方のご迷惑になりますので、おしまいください」と、監視員のおねーさまにギロリと睨まれたり。

こ、わ、い。

「忘れていますよ。どうぞ」と、渡してくださるのでもなく、笑顔の欠片もなかったので、溜まりに溜まって憤怒の思いを「ご迷惑」に混めた慇懃無礼さばかりが印象に残った。

しまった!完全なる母のセレクトミス。

以前も、ここの美術館で他の絵本作家の展覧会も観たけど、もっと親子がいて、わーきゃーしていて、子ども主体でのびのびしてたんだけど。

この不穏な空気を子どもたちも感じ取ったのか、美術館滞在は「ママ。帰ろうよ」コールが保育園チームから出て、30分くらい。潮時だ。

これ以上、大人の女子がしっとりと、メルヘンの世界に入る空間を邪魔してはならないので、せかすようにして出た。

子連れに厳しすぎる国

これは、わたしの甘い甘い要望を承知で言うのだけど、海外の美術館のように、模写したり、床に寝転んで見たり、自由に絵を観るスタイルにならんかな。とうっすら思う。

何より、日本は、子連れに対して、まぁ、社会的弱者に対して、とても厳しいので、そこらへん、なんとかならんかなぁと。

妊婦だったり、子連れで出かけると、非常に社会的な制圧、まわりの目が
厳しすぎて、ここで子育てするのはしんどいなぁと、いつも思う。

ちょっと前に飛行機で赤ちゃんが泣き止まなくて・・・というコラムが話題になったりして、赤ちゃんの泣き声すらNGな日本の社会が露呈した。

レストランで騒ぐな
新幹線で騒ぐな
病院で騒ぐな

ここらへんは、わかる。

だけど、

公園ではキャッチボールも
花火もできなくなって、子どもの
遊び場もない

保育園を新しく作るという案が立つと、地域住民から騒音問題でクレームがつく

児童相談所を都会のど真ん中に作ろうとすると、地域住民から反対の声があがる

そんなニュースもよく報道される。

保育園は窓を防音にしたり、外遊びの時間を制限したり、配慮をしている。いろんな人が地域に住んでいて子どもだけじゃないことも知っている。

でも、子どもの声は生活音であり、騒音ではない。

人の暮らしの中で普通に聴こえてくる、自然な音。

それを雑音や騒音としてとらえて、訴えるという社会になっていることの方が問題に思えるくらい、寛容さのない国。

少子高齢化で子どもの数が少なくなっているのは、日本の子育て環境の厳しさを反映して、そんな育てづらさの中での子育ては罰ゲームでしかないことで、産み控えているのかも知れない。

子どもを産み育てるという生物にとって生存の自然な戦略が、逆に日本ではリスクになるのだから。リスクなので、行政など社会的に守るべきものなのに、社会政策の中では子育て世代は優先事項ではない。

社会的弱者と呼ばれる、いわゆる優先席に座ることのできる、一定の配慮が必要な人たちに、赤ちゃん、子ども、そして子どもを育てる養育者も入っていることを知らないのかもしれない。

このように稀なもの、保護が必要な弱きもの、保護が必要なひとへのまなざしが厳しいのかもしれない。そもそも、子どもは家庭で産み育てる非常にプライベートなものだと思われているのかもしれない。

でも、そうではない。

かつてこの国では、社会で産み育てるものとして子どもは扱われていて、社会全体で子どもを見守るシステムだったことは案外知られていないのかも知れない。

子ども学や発達学、社会学、福祉学の中では当たり前の子ども観なのだけども、それは学術の世界だけのお話なのかもしれない。

でも、弱きものが生きやすい社会は強きものにとっても、また、誰もが生きやすい社会であることは明らかだ。

ダイバーシティ、ユニバーサルデザイン、いろんな社会学用語があるけれど、まるっと共通するのはそういう共存のルールが人間の社会には必要だということ。

わたしたちの視点をちょっと変えると、世界が違って見える。

お母さんたちは、24時間一人で子育てを戦っている。自分のことを後にして、とにかく子どもたちにつきっきりで、一人の時間なんてありません。

それでも、絵を観るなど自分のことをしたいなら、子連れOKな場所を選ぶか、保育園の一時保育を利用するか、実家に子どもたちをあずけるか、公共の交通機関を使わないで車を運転するなど、自分たちで何とかしようする。

そんな算段をしないとできないし、そうして隠され、子どもたちは社会から分断されていく。

お母さんひとりが頑張らなきゃいけない社会をどうにかしたい。お母さんが一人で耐えて我慢しなきゃいけない社会ってどうなんだろう。

お母さんひとりが頑張らなくてもいいんだよ。みんなで子どもたちを育てようよ、という方向へ転換するべく、子育て支援政策へわたしが発達学の学生だった頃から教授たちは提言していたのに、20年前から変わっていない。

むしろ、貧困が増えたり、平成の30年間の間に子どもたちを取り巻く環境や子育て環境は悪化している。子どもにとっても親にとっても、子育てはサバイバルである。







論文や所見書き、心理面接にまみれているカシ丸の言葉の力で、読んだ人をほっとエンパワメントできたら嬉しく思います。