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インディアンサマー

秋から冬にかけて寒さが日ごとに急速に増してくる中で、ふいに穏やかで温かい陽気になることがあり、それを日本では小春日和といい、米国ではインディアンサマーと呼ぶのだが、確かそんな季節の移り変わりが書き出しになっている小説があったはずだ、と思った。

『英語歳時記』の「インディアンサマー」の解説にあっただけではないかとも思ったが、なにか物語が続いていたような気がしてならない。陽気な物語とは思えず、まさかSFということはないだろう。となると怪奇幻想小説だろうか。ということで、H.P.ラブクラフトの『ダンウィッチの怪』ではないかと思った。

『ダンウィッチの怪』はラブクラフトの三大傑作のひとつに数えられる名作で、マサチューセッツ州の山奥にあるダンウィッチという部落の周辺のおどろおどろしい情景描写から始まるのだ。だが実際に読んでみると季節のことなどひとことも書かれていなかった。わたしは、季節とは関係ないと思いながらも、ダンウィッチという架空の土地の描写に引き込まれて続きが気になり、探し物はそっちのけで、そのまましばらく小説に没頭した。

だが、50年も前に買った文庫本(『怪奇小説傑作集3』創元推理文庫501C)は、字が小さくて紙面も茶色くなっているので、すぐに目が痛くなってきた。それで、集中力が切れて、途中にアーサー・マッケンの『パンの大神』のことが書いてあったことに思いが飛び、ラブクラフトの怪異は結局宇宙からの怪物で、M.R.ジェイムズは純粋な幽霊(銅版画の中の人物が動き出して自分を殺しに来るとか)だったが、さて、マッケンやアルジャーノン・ブラックウッドはどうなのだろう(どちらも本はもっているがほとんど読んでいない)と思い始め、怪奇小説傑作集1のほうに、どちらも収録されていたことを思い出して探しに行ったのだった。

本棚のあちらこちらに(別に意図したわけではないが)ばらばらに1巻ずつ置いてある怪奇小説傑作集を探して見ているうちに、ふと本棚にある書店カバー付きの薄い単行本が何冊か目に留まった。わたしの記憶では、実家に置きっぱなしでカバーをかけたままの単行本に今更見るべきものはなかったはずで、それゆえこのご時世で実家に引き籠ってテレワークをしている間にも、わざわざ確認したことはなかった。特に薄い単行本で書店カバーがかけっぱなしになっているのは、参考書の類と相場が決まっていた。実際、最初に目に留まった1冊は、フランス語入門だった。読み方がカタカナで振ってあるような超初心者向けの入門書である。「やっぱり、参考書しかないよな」とわたしは思いながら、そばにあった別の本を抜き出した。

そうしたら、見つかったのである。失くしたと思っていた『チャリング・クロス街84番地』の単行本が、丸善のカバーがかかったままあったのだ。2段重ねの奥(本が多いのですべての棚で本が前後2段に並んでいる)にしまい込まれていているのではなく、少し下の段ではあったが、前面に普通に並べられていたのだった。奥付をみると、1980年4月18日第1刷発行で、あとがきに72年に出たものの新装版であると書かれている。日付からいうと、わたしはまだ大学4年になったばかりの4月。カバーも丸善なのだから大学のあったお茶の水で買ったのだろう。実家に置きっぱなしだったということは、引っ越しのときにわざわざ持っていくほどの本だとは思わなかったということだ。最近文庫の新装版がでたばかりで、買おうかと思ったこともあったのだが、買わなくてよかった、と思った。

だが、このとき一緒に見つけたヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』(みすず書房。この本も丸善のカバー付きだった)は、時すでに遅しであった。昨年平凡社ライブラリー版の『自分ひとりの部屋』を買って読んだばかりだったのである。以前に買ったものが見つからなかったというのではなく、買ったこと自体まったく記憶していなかった。どうも買ってはみたものの、出だしのところで訳文に躓いて、そのままになってしまったようだ、と少し読み直してみて思った。

買った本はすべて記憶していると信じていたのが、この半年ほどの間に、カート・ヴォネガットの『ヴォネガット、大いに語る』とエドワード・オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を重複して購入するという失敗を連続してやらかして以来、その自信はすっかりどこかにいってしまっていた。今回それに新しい事例が追加されてしまったというわけだ。

ヴォネガットとオールビーは、どちらも購入してから、すぐに別の部屋の本棚にあることに気づいたのである。ヴォネガットのほうは、古い1980年代のサンリオ文庫版で、活字も小さく紙面も茶色くなっていてひどく読みにくい代物だったので、まったく別の本のように見えるハヤカワ文庫版は、もちろん訳者も同じで、内容的には完全に同一の本だったのだが、それほど損をした気にはならなかった。サンリオ文庫版をどこまで読んだか記憶にないが、ハヤカワ文庫版はどこかで読んだような気がしながらも楽しんで読めたからである。

だが、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』のほうは、全く同じハヤカワ演劇文庫版で、しかもどちらも同じ2006年の初版だったから、見つけた瞬間、愕然とした。しかも、買ってはみたものの、2-3ページ読んで放り出した直後だっただけに、いっそう悔しい気がした。最初に買ったときにも同じ箇所で投げ出した記憶が突然よみがえった。

同じような題名が多い推理小説の二度買いは、ときどき巷のエッセイで見かける類の自虐ネタだが、読んで楽しんで忘れたのなら、もう一度料金を払って楽しんでも、特に損したことにはならないだろう。映画を二度見るのと同じことである。だが、さすがに、全く同じ本を二度買ってしかも一度も読んでいないのはひどくバカげたことのように思えるし、実際バカげている。前売り券を買った映画を見そこなってまた前売り券を買い、結局見なかったということではないか。すぐに投げ出した理由はちょっと込み入っていて、簡単には説明できないものの、以前に買って読めなかったことすら忘れてもう一度買ったわけだから、二重にバカげているような気がした。

さすがに、こんなことはもうないだろうと思っていたのだが、今回『自分だけの部屋』をみつけたことで、それもかなり怪しいことが判明した。記憶にある限りでは、もう他にないことは断言できるが、それも、次になにかを見つけるまでのことかもしれなかった。

結局、秋から冬にかけての描写から始まる小説は見つけることができず、そんなものは初めから存在していなかったのではないかという気がしてきた。『ダンウィッチの怪』に『英語歳時記』がミックスされたのだろうか。だが、たしかに、なにかがあったはずなのである、たしかに…。


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