キャリア・カウンセリング/キャリア開発のための人事講座(15)成果主義について

 今週は前回の続きです。ちょっとだけ前回のおさらいを‥‥ 
 話の発端は、給与が上がったといっても、それがそのまま働こうという気につながるとは限らないかも‥‥ということでした。最近、「成果を上げた人には報いるべき的」な発言がよく聞かれますが、人が「よし、もっと頑張ってみよう」と思う要因、つまり動機付け要因として、報酬というのはそれほど効果があるわけではないのではないかということです。
 それについてハーツバーグの衛生要因、動機付け要因を検討しました。 ハーツバーグが言っているのは、賃金はもとより衛生要因=「不足すると不満足を感じる要因」であって、動機付け要因=「多くなると満足度も増す要因」ではないということでしたね。
 でも、一方ではインセンティブ制度というのもあって、業績が上がればあがるほど報酬が増えていく仕組みがあり、これでやる気になるというケースもあります。これは、実は増えていく報酬額そのものに反応しているのではなくて、「報酬額が高い=自分はよくやったではないかという満足感」を感じるからではないでしょうか? ハーツバーグの指摘する動機付け要因の一つ「達成」、つまり「成し遂げた感じ」を得られるからということです。こうなると、報酬で報いるのはよいけれど、その金額が小さいと、かえって「自分の努力はこれくらいしか評価されていないのか」とマイナスの影響を及ぼすことがあることを指摘しました。報酬で報いることもいいかもしれないけれど、それ以外にも次の仕事で報いるという方法もあることを提案しました。 同様の指摘は「虚妄の成果主義」(高橋伸夫著)でもなされていたのでした。

★ 高橋氏の成果主義に対する認識との違い

 前掲の著書の中で高橋氏は成果主義を次のように定義づけ、さらに真っ向から「成果主義」を否定なさっています。

 1)できるだけ客観的にこれまでの成果を測ろうと努め
 2)成果のようなものに連動した賃金体系で動機付けを図ろうとする全ての考え方

 この1または2、いずれか一方にでも該当するのが成果主義で、成果主義はうまくはいかないとの結論でした。
 これに対して、2は確かにそうだと思うけれど、1については賛成しかねる−というのが私の立場です。高橋氏の指摘では、1に該当するものを否定する理由は、できるだけ客観的に成果を測ろうとすると、測定しやすいもの、できそうなものに視点が集中してしまう−そんなことだったように思います。
 もしかすると、私は高橋氏の主張を読み違えているのかもしれないのですけれども、客観的に成果を測ろうと努めることは決して悪いことではなく、むしろ奨励されるべきことではないかと思っています。そうした懸念が発生するのは、客観的かどうかにあるのではなく、上司のマネジメント・スキルの低さによるものです。その意味で、1に該当する成果主義は○だと思うのです(2は×、ただしケースによっては△ですが)。

★ 客観的って、よくないですか?

 実は「客観的な測定(評価)」というのは、人事考課項目の設定の際によく出てくる議論です。議論の方向性は「もっと客観的にならないのか?」です。先の指摘とは全く逆なのです。なぜ、人事考課では「客観的に」という話になるのでしょうか?
 客観的の反対は主観的です。人事考課で言う「主観的」とは、上司の自分の思いこみで部下の人事考課をすることを指します。中にはきちんと部下のことを見る上司もいるでしょうが、そうではない上司も少なくありません。評価が甘すぎる人もいれば辛すぎる人もいます。この上司によるばらつきを何とかしてもらえないか−というのが客観的な測定(評価)を求める一つの理由です。
 さらに、たとえばらつきが少なかったとしても、判断するときの着眼点や基準をはっきりしてほしいという意見もあります。
 こうしたものが顕在化していないと、部下としては、なにをどうすればよいのかが分からないからです。分からないからやらないという意味ではなくて、漫然と仕事を進めるのではなく、どこに注力すればよいのかが分からなくなってしまうのです(それは客観的に測定するがどうかにかかわらずやればよいのではないか−と反論されそうですけれど、結局は社員の力を集中させるためにやるのだから「もしかすると他のことはやらなくなるかもしれない」というリスクは同じことです。むしろ、そのようなことをしておいて結果的にはなんの評価もしないのならやらない方がましでしょう。たとえ次の仕事で報いるとしても、その人に仕事をやらせるかどうかの判断基準となるわけですから)
 とくに「積極性」だとか「企画力」だとかという、曖昧な情意評価、能力評価、勤務態度評価といった項目はこうしたことが起こりがちです。例えば「積極性」。よく挨拶をするだけで「あいつは積極性がある」という人もいれば、「人がやらないような仕事を自主的にやるのが積極性だ」という人もいます。
 どんなことを指すのかという定義を上司が誤解していたり、具体的にどんなことがあったら積極性があるということになるのか、また評価には段階(例えばS、A、B、C、Dといったような)が付きものですが、どうだったらSになるのか−こうしたことが明らかでなければ、部下はどうすればよいか分かりません。こうしたことが明らかでないと、評価結果への納得性はずいぶん低くなってしまいます。
 人事担当者はそれでは困るというので一所懸命文章で定義や評価基準を作ろうとしますが、どんな職種にも当てはまるような定義、基準は書けません。従って、「営業職向け」「企画職向け」といったように、多少大括りにしたものを作成します。でも大括りにする分、実体とは離れてしまい、評価にばらつきが出てしまうのです。しかも悲しいことにそうやって作って、細かく評価してもその人に対する全体的な印象と一致しないために、考課者が記入結果を手直ししてしまうことが多いのです。
 「なに、○○君がB評価だって? そんなことはない。彼はよくやってくれている。だからAだ。点数がおかしいならそうなるように変えよう」だとか、「××君が○○君より上というのはおかしいな。××君もAにしよう」といった感じです。
 結局、情意や能力、勤務態度といった本質とは関係のないところを曖昧なままに評価をしようとすることろに無理があるのです。それよりも、少なくとも今期は何をやったんだろうかと言うことをきちんと部下と上司で了解しあえた方が、よっぽど実があるといえます。

★ 成果って何?

 成果というのは求めていた結果です。それぞれの人がどんな仕事を求められているのか、組織からすれば求めているのかを明らかにしておいて、それがどうだったかを評価しようと言うのが成果主義だと思います。こうしたことをしようとすると、何をすべきかをすりあわせると言うこと、つまり、求める成果とは何かを上司と部下とが期の最初に確認しあっておくと言うことがとても大切になります。情意評価や能力評価はここを曖昧なままにしてきたのです。
 この時点で曖昧なままにすませておくとどうなるでしょうか? こんな感じだろうなと思ってやっていたら、期末になって「君のやったことは我が部門にとってあまり効果のないことだったんだよ」と言われかねません。きちんと確認してからスタートするのは成果主義の基本です。
 成果主義になると先の見えないことに取り組まなくなると高橋氏は指摘されていたように思いますが、先が見えなくても取り組んでいくということそのものを期待するのであれば、それをきちんと上司と部下とで確認し、「今期やることは結果がどう出るかは分からないけれども、このテーマをきちんと進めて結論を導き出すことなんだよ。それが君に求めたい成果なんだよ」といえばすむことのように思います。つまり、結果だけを客観的に評価しようとするのが成果主義なのではなくて、そこに至るまでのプロセスで、きちんと求める成果を互いに明確にする作業、面接をきちんとし、上司と部下が求める成果について共通認識としつつ仕事を進めていくのが成果主義なのです。
 面倒でしょうか? そんなはずはありません。仕事イメージのすりあわせをしないで仕事をさせることなんて、マネジメントとは言えないのではないでそうか?
 PDCAとはマネジメントの基本サイクルです。
    P=Plan
    D=Do
    C=Check
    A=Action
 でした。このサイクルは回せば回す程良いのです。毎月でも、毎週でも、計画を確認し、その結果を検証するのがマネジメントです。
 これをきちんとしようと思えば、どうしても具体的な話になります。その達成度合いを評価しないで、何を評価するのでしょうか? そのプロセスをよくやってくれたかどうかという感情で評価するのでしょうか?「よくやってくれた」で評価されるなら、仕事をいかに進めるかよりも、上司と以下に人間関係をうまくやっていくかに注力した方が良さそうです。これでは本末転倒ですね。

★ 成果主義と目標による管理

 というわけで、成果を客観的に評価すること自体は決して悪いことでは
ないと思います。さらに、もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが、期のはじめ、期の間、さらには期の終わりと、期間を通じて、上司と部下が、何をすべきか、何を期待しているのかをきちんと話し合い、その達成度を人事考課にも取り上げていくと言うことは、まさに目標による管理(MBO)の考え方に近いものです。そのものといってもよいかもしれません。
 大切なのは、部下がやるべきことについて自己所有感、あるいはコミットメントをもっていることです。やる気があるという単純なもの、精神的なものではなくて、その仕事をやることに、自分自身もやりがいを感じるという状態になっていることが大切なのです。仕事こそが自分で自分を動機づける元になるのです。だとすれば、どんなことをやるのか、どんな結果(方向性といった結論としては曖昧なものかもしれないけれど、今の時点では分かっているもの)を求められているのかが分からないと、仕事に対する愛着も湧きがたいのです。
 その意味でも客観的に捉える努力は、部下も上司も双方がやってみてもよいものだと思います。こうしたことを避けようとする上司は、成果主義だろうと年功序列だろうといなくてもよい上司、いや、いてはならない上司です。

★ おまけ

 ついでに言うと、成果主義の定義を示したうえで論議なさっている点では、さすが高橋氏だと思います。多くの方が、そのあたりは曖昧にしたままのような気がします(違っていたらすみません)。私自身は成果主義かどうかはどちらでもよいことのように思います。ただ、上司と部下の間で当面の成果と、中長期のキャリアプランが検討され、相互に理解できていることの方が大切だと思います。報酬にどれほど反映するかは、その組織次第だと思います。そうした方がよい組織もあれば、よくない組織もあります。それは組織の文化や成熟度によるものだと思っています。
 また、人事が専門ではないキャリア・カウンセラーのみなさん。「成果主義」「実力主義」だといった言葉だけに反応したり、思いこんだりすることのないよう、その言葉の中身はきちんと改めるようにする必要があると思います。成果主義を打ち出した会社=ドライな会社では決してありませんし、脱年功=社員を長期雇用するつもりのない会社でもありません。その言葉を使う人の、裏にある意味も捉えたいものですね。

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