見出し画像

状況の変化を受け入れるということ

わたしは、生きている中で、自分の人生に影響を与える状況の変化が4回ありました。1度目は16歳のとき、2度目は20歳のとき、3度目は44歳のとき、4度目は、まさに今です。特に1度目と2度目が一番大きく、その後訪れた3度目と4度目の状況の変化が発生しましたが、「まぁ、なんとかなるだろう」っていう楽観的に捉えて生きています。
今回は、2度目の状況の変化について書き残しておきます。

わたしはアトピー性皮膚炎を患っていたこともあり、子どもの頃から自分の病気を医学の力ではなく化学の力で治したいという気持ちがありました。
当時、バイオテクノロジーが流行っており、自分もその研究をしたいという思いが強くなり、大学は当時バイオテクノロジーの研究が盛んな農学部を志望し、家が貧乏だったこともあり国立大学と奨学金も手厚い私立の某有名大学を狙って勉強をしていました。
貧乏だった理由は、お金が全て医学部へ進んだ兄に渡っていたからです。

2浪しましたが大学は全て落ち、親からは、どこでもいいから学校に行ってくれと言われ、専門学校に行くことにしました。その学校を選んだ理由はMEの道へ進める学科があったためです。そして、MEの道を選ぼうとしたのは、兄は医者になるだろう、なら、兄が経営するであろう病院でMEとして働いて楽しく人生を過ごしていこうという安易が発想があったのが本音です。
結構、大学への道を諦めてからは、安易な発想で物事を考えるようになっていた自分がいました。楽して生きていこう、と。

無事に、MEの学科の入学手続きも済み、入学式が終わった後、担当の先生に呼び出しがあり、2人だけで面接が行われました。
なんだろう、と思いながら部屋に入り、単刀直入に言われたことは、

来年から、あなたが入ったMEの学科を無くすことになりました。
そのため、違う学科を今すぐに選んでください。

でした。

もう1年勉強すれば大学へ行けたかもしれないのに、親からその道を閉ざされ、そして、安易に決めたとはいえMEになる道も閉ざされ、八方ふさがりの状態になり、わたしはその瞬間その先生を目の前にして、泣きました。

自分のやりたいことを世の中はやらせてくれないのか、と。

20分ぐらい泣きましたが、先生からは、申し訳ないけれども、時間もないので、今、この場で決めてくれ、と。
自分の人生を、数十分の間で決めなければならないのか、と。
コンピュータのプログラミングが本当に嫌いだったので、電子工学科へ進むことに決めました。

決めたものの、1カ月ぐらいは、納得がいかない日々がずっと続きましたが、少しずつ、時間が経過していくうちに、この環境の中で、やれることはやってみよう、と思うようになり2年を過ごし、その結果もあり、今では社員数が5000人ぐらいいる大手に入社することに繋がりました。その会社で22年働いて、早期退職しましたけど(笑)

20歳のときに遭遇した状況の変化。そして、その決断で自分の人生が大きく変わったものの、その中でも、上手くやっていこうという風に考えられたことを経験できたおかげで、今、仕事になかなか結び付かないという状況でも、まぁこのまま続けていてもなるようになる、何とかなるだろうという楽観的な思考になれたのではないかと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?