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新卒扱いは30歳までOK!な3つの理由

30歳新卒扱いのリスクは自己責任!?

ただ、手放しで喜んでばかりもいられない。

いちばん恐れていることは「30歳まで新卒」が広がることで、今以上に若年層のスキルアップが自己責任化されていくことである。

どういうことか説明していこう。

人を育てる役割を企業に丸投げしてきた社会と、成長が鈍化するなかで人材育成を担えなくなった企業の「両者の狭間のエアポケットに落ちて、受け取り手がいない」ということが今の学生が直面している現状である。

若年転職者が増え、彼らの職業人としてのスキルアップを担う存在がいないなか、彼らに生じるリスクが不条理に自己責任化されていっているという問題。

育成機能を企業が担ってきたことも、その機能を企業が担えなくなりつつあることも、誰かに責任があるということではない。

ただ、経済発展の鈍化や社会設計の過程で、若年層の職業人としてのスキル育成を担う存在が日本において失われていったのは事実である。

その状態を放置したまま「30歳まで新卒」という流れが広がることは、大学卒業から入社までの時間的猶予を認める分、その間の自身のスキルアップが自己責任化されることにつながる。

その結果、与えられた時間をうまく活用できる人材とそうではない人材が生まれ、格差を増幅させる可能性がある。

「大学卒業後の時間を有効に使えない人は、新卒ですぐ就職すればよいではないか」という意見もあるだろう。

しかし、企業の短期的な経済合理性を追求すれば、29歳まで自ら鍛錬し、必要なスキルを身に付けて入社してきてくれる人材が誰より欲しい人材となる。

そうした人材はまさに即戦力として活躍してくれるだろうし、人材を育てるコストも削減できる。

もちろんそんな意図で「30歳まで新卒」を導入するわけではないだろうが、極端に言えばありうる事態である。

そう考えると、大卒者にとっては、「30歳まで新卒」は競争の激化を意味する。

新卒一括採用は、突き詰めればパイの奪い合いである。

30歳までが新卒扱いとなれば、既卒者や一度どこかの企業で鍛錬を積んだ人材、あるいは起業してさまざまな経験を積んできた人材と、大卒者は限られたパイをめぐる戦いを強いられ、その競争の弱者となる可能性がある。

人口減少社会を迎え採用枠を奪い合う人数が減っていくため、就職難の問題はこれから解消されていくという見方もあるが、2020年以降に到来すると言われる不景気が現実になれば、採用枠も圧倒的に削減されるだろう。

また、オリンピック特需や円安による景気回復などの影響を受けて、ここ数年新卒の採用数を増やしている企業が多いが、そのことが数年後の採用枠をさらに圧迫する可能性も高い。

目の前のビジネスチャンスをつかむために増やした人員は、景気が低迷したからといって減らせるわけではない。

その結果、その後の新卒の定期採用枠の削減によって全体の人員調整が図られる可能性は高い。

そうして新たな人員の採用ニーズが減っていったとき「新卒一括採用」という枠組みを残しながら、そこに参入するプレーヤーが増えることは、より低い年齢の者、経験が乏しい者にとっては厳しい状況となることを意味する。

企業からすると、「30歳まで新卒」の仕組みは幅広く優秀な人材を採用する可能性を広げることになるが、就職先を獲得する側にとってみると競争の激化につながるのだ。

格差と排除を正当化してしまう!?

大学を卒業するまでは大学が面倒を見る、就職してからは企業が面倒を見るのが、一応は大卒就職者が生きている世界である。

しかしすでに記したとおり、働くうえでのスキル育成という観点ではどちらもその機能を果たしきれてはいない。

「30歳まで新卒」を悲観的な視点からとらえれば、その間に時間的猶予をつくり、競争に参入する資格だけを若者に配っていると言える。しかしそれでは人は育たないのだ。

時間を与え競争を設定しさえすれば人が育つと思うのは幻想だ。

あるいは、自身を成功者だと思い込む方々の傲慢である。「自己責任化社会」においてこの考え方を実現するような仕組みが広がると、「時間も競争への参加の機会も提供したのに頑張れないのは自分たちのせいだ」という言説が広がり、経済合理性を追求するために優秀な人材だけを引き上げ、それ以外の人々を排除する免罪符が生まれていく。

社会学者のジャック・ヤングは、かつて先進諸国の社会は標準的な生き方を是としながらもそこから外れた者も社会に包摂しようとしていた「包摂型社会」だったが、不確実化・多様化・不安定化のなかでリスクや困難を抱える者に対する不寛容が高まり、そうした者を排除する「排除型社会」へと変化が起こっていると指摘した。

これに対し東京大学教育学研究科の本田由紀教授は『軋む社会』(2011年)のなかで、「日本では標準的・同質的で安全な社会がかなりの程度維持されたまま、そこから過酷な排除のされ方をする集団があらわれはじめていると考えられる」と、日本特有の「排除型社会」のあり方を説いた。

その「過酷な排除のされ方をする集団」の例として挙げたのが、若年労働市場における非典型労働者(正社員以外の雇用者)や無業者であった。

焦点を当てているのは大卒者だが、もちろんこうした非典型雇用や無業者の問題はさらに深刻である。

自己責任と多様性ということばでは片付けられない!?

だが昨今、生き方・働き方の多様化を認める仕組みや制度が表面的には増えつつも、そうした生き方を選んだ者も排除の対象となりつつあるのだ。

多様な生き方・働き方を選ぶ若者は無条件に包摂されるわけではなく、「自分の力で生きていけているかぎりは包摂する」社会となっている。

不確実化や不安定化は時代の流れ、多様化の許容は時代の要請である。

にもかかわらず、標準的でない生き方を選ぶ彼らへの支援が行われないとしたら、まさに「自己責任化」に押し潰される個人が量産されることとなる。

そしてそれは、そうした責任を果たせる個人とそうではない個人を生み、格差の拡大にもつながる。

新卒者のみがゴールデンチケットを持っている状況が良いとはまったくもって思わない。

むしろ不条理な仕組みと言えるだろう。しかしそこだけを変えても意味がないのだ。

社会にとって重要なことは、新卒一括採用という枠組みをどう拡張するのか、ということではないはずである。

すべての人が生きていくために職に就けるということ、そしてそれぞれの人が自分の可能性を最大限発揮し、みんなで社会を豊かにしていくことである。

そのためになにをすべきなのかを社会全体として考えていくことが重要である。

つまり、優秀な人材をどう有効に職に当てはめていくかということ以上にわれわれが本当に考えなければいけないのは、「いかにすべての人材を育てていくのか」ということだ。

そしてそれが真にすべての人に行き届くということが重要なのである。



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