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父の記憶から終戦記念日に思うこと

こんにちは!!お盆休みですが台風の軌道に近い方、大丈夫ですか?
神奈川はどんよりしながら気温は高く、持病に響く感じです。

さて終戦記念日に私が感じることを今日は書かせてください。

「“平和”を使わない世界にしないと」100歳元特攻隊員からの継承

【報ステ】「“平和”を使わない世界にしないと」100歳元特攻隊員からの継承 (tv-asahi.co.jp)


昨日テレビ番組で、宗さんの話を聞きました。
現在100才、元家元で矍鑠(かくしゃく)とされています。
彼は特攻隊に属しており、仲間をたくさん見送りました。
最初は戦争の話を聞かれるのも、話すのもいやだったという
ことですが、今は語り継ぐ使命があるとおっしゃいます。
その中で私が一番胸をうたれた言葉をみなさんと共有したいと
思いますが、それは

「“平和”を使わない世界にしないと」という言葉です。


戦争があるから平和ということになる。
平和という言葉は嫌いだ・・・

まっすぐな視線で語る宗さんを見て、私は父を思い出しました。

私の父は70才で28年前に肺がんでこの世を去りましたが、
戦争の時少年兵で九州の航空隊にいました。
やはりたくさんの特攻隊を見送った・・・
終戦になり、父は戻りました、だから私が生まれたわけです。

今思えばもっと聴いておけばよかったのですが、父も語りたがりません
でしたし、戦死したお兄さんのことが起因して、戦争は聴いてはいけないと
私は思っていました。

しかし晩年、父とよく旅行にいったのですが、そんなとき父は大人げなく
窓際の席を娘の私に譲らないのです(笑)

那覇空港で撮影 自衛隊
こういうのをじっと見ていました。

でもある日私は気づきました。
父は飛べなかった日を思い出し、景色を見ている・・・
というのは、窓にぴったりくっついて、何も話さずに風景を見て
いるのです。
飛行機は彼にとってあこがれでもあったのです。

戦争から戻り、お兄さんが戦死して、一番仲良かったので
すごく悲しかったそうです。
そして父は国鉄に入り、鉄道人生が始まりました。

そのせいか私は最近、飛行機は怖いくせに、いつも窓ぎわに座り
食い入るように外を見ています。
なんか、父が一緒に見てる気がして・・・

あー、色々思い出しちゃったなあ。
父は肺がんになり、最後は日野原先生のホスピスに入りました。
そしてなくなる3日前、天井を指さしてこう言いました。
「兵隊がきた!!」

もう声も出なくなっていたのに、突然どなったので、私は驚き
「お父さん、どうしたの?」と聞いたら、
「万里子、見えないのか?兵隊がいるだろ?」と天井を指します。

首をかしげる私に、父は「そうか、お前には見えないのか」
とつぶやきました。

きっと、戦死したお兄さんか、仲間が迎えにきたんですね。
でも残念なことに私には見えませんでした。

見てるかなあ・・・

こんな話を終戦記念日に書くことになったのは偶然ですが・・
(書こうとおもって書いているわけではない)
でもだからこそ、父の最後の言葉を聴いてほしいです。

末期がんだとわかり、私は会社を休職し、ホスピスに付き添う毎日。
周囲はそんな私の健康を心配しましたが、
私はがんとして帰らなかったようです。
食事もとらないからどんどん痩せていったみたいです。
そんなとき、父が私に「万里子に話がある」と母に言いました。

恐る恐るベッドに行くと、
「万里子、素晴らしい人生をありがとう」
そういったんです。

すごい父でしょう。多分弱る私に残すものはお金でもモノでもなく
言葉、それも愛の言葉だと父は私に伝えたかったんでしょうね。

戦争で命を落とす人も、病で命を落とす人も、命の重さは同じだけど
残されたものが伝えていくこと、これは宗さんが言うように
大事なことだと私は思います。

戦争体験に耳を傾けようと思います。
1年に1回、終戦記念日だけでもいいじゃないですか。
明日は日常に戻るとしても
体験者は自らは語らないかもしれませんが、
私たちが聴く耳もてば
きっと話してくれるでしょう。
そこから学ぶこと、勇気をもつこと、たくさんあると
私は思います。

最後まで読んでくれてありがとうございました。
ご縁に感謝します。平和に感謝します。健康に感謝します。

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