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修正で思ったこと②差別さえなければ

今更感満載だが、今回も『ルックバック』の1回目の修正、「差別を助長する」という意見について当時思っていたことが下書きに残っていたので置いておこうと思う。
ただただ雑文だし、答えも出ていないが、“表現“については今後も考えていくべき問題だと思う。
(京アニ放火事件については触れていないです)


○通り魔の“幻聴設定”が差別を助長するとして修正されたと知ったときの個人的な雑感

『ルックバック』が修正された。
最初の公開が7月19日、
1回目の修正が8月2日である。

修正を知ったときはショックだったし、修正には反対だった。
しかし「差別表現だ」と言われると、「修正は必要ない」と大声で主張するのも気が引けてしまう。
「修正は必要ない」と主張することによって差別を容認していると思われるのは心外だ。
差別はダメ、というのはもちろんわかる…。

「表現の自由」があるのだから、「読み手の感想の自由」もあるはずだと思うんだけど、
一部修正によって「読み手の感想の自由」は少なからず奪われてしまったと感じた。
けど「差別表現だ」という感想も、読み手の感想の自由なので「その解釈は絶対にありえない」と言うことは出来ない。

作者側が読者の言葉を重く受け止め、修正したことは凄いことだと思う。スルーせず受け止める態度は本当に凄い。

個人的には作者に差別意識があって通り魔を描いていたとは思えなかった。
差別している人間は差別していることを自覚していないから無意識に差別している、という意見もあるが、『ルックバック』においてはそれはあり得ないと思う。
通り魔はステレオタイプだとか、スティグマだとか、そういうものではなく、ちゃんと物語の意味を背負って『ルックバック』の世界に存在している。

正直、通り魔の設定が統合失調症の症状と似ているということにぼくは全く気づかなかった。
というか、「統合失調症」という名称は聞いたことがあったけど、どんな症状であるかを全く知らなかった。
とはいえこれに気づけないことはぼくの勉強不足だ。
幻聴が統合失調症の症状であること、そして精神疾患のある人は犯罪率が高いという差別が世間にあることも全く知らなかった。
実際精神疾患のある人の犯罪率は低いそうだ。

通り魔の「幻聴」という表現がどうしてここまで問題視されたのだろうか。

個人的には「幻聴」が差別を助長するというのなら、通り魔が「オッサン」だったことにも言及すべきだと思った。

美大を襲ったのはなぜオッサンだったのか?(この問いについては次回更新する)
オッサンではなく、京本と同じ年くらいの女性でも良かったし、おじいさん、おばあさんが通り魔でもよかったはずだ。なのに美大を襲った通り魔は「オッサン」だ。

「オッサンは殺人をする、という差別を助長する」という意見が話題にならないのはなぜだろう。

多分それは読者が「オッサンだけが殺人をするとは限らない。老若男女すべての人間が殺人を犯す可能性がある」ということを前提で読んでいるからだ。

「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」という表現は、
ぼくらが生きているリアルの世界に「精神疾患者は犯罪を犯す可能性が高い」という差別が存在するから問題視されてしまう。この差別さえなければ、「通り魔はオッサン」という設定と同じように、
「通り魔は幻聴が聞こえる」という設定として読むことができた、かもしれない。

リアルの世界に差別さえなければ本来、物語の表現はもっと自由でいられたはずだ。

SNSでは差別を助長すると声をあげた人に対して罵詈雑言が投げられたが、
悪いのは作品でもなく、差別を助長すると声をあげた人でもなく、“差別”があることも知らず、そして知っていても放置している我々なのではないだろうか。


○漫画はフィクションであり、現実と結びつけるべきものではないのでフィクションなら差別表現があっても問題ない、という意見についての雑感

以前「鬼滅の刃の禰豆子に竹を噛ませるのは女性軽視である」として少しだけ話題になったことがあった。
しかし鬼滅の刃はフィクションの世界である。

禰豆子が竹を噛んでいるのは“鬼”の状態の時だけである。
現代の日本で人間が鬼になって人間を喰うことはないし、血鬼術を使うことも出来ない。禰豆子に竹を噛ませるのは「人間を殺さないように」という人としての倫理を守らせるためであり、そもそも女性だから竹を噛ませているわけではなく、鬼だから噛ませているのだ。
そして現実に鬼は存在しない。

現実とかけはなれたフィクションが現実に与える影響はほぼ無いと思うし、読者は完全なるフィクションとして物語を消化していくだろう。

『ルックバック』はどうだろう。

今となっては修正したことに対して不満はあっても異論はない。やはり傷ついた人が声をあげたという事実がある限り修正はしなくてはならなかったと思う。

ルックバックも完全なるフィクションである。

ただルックバックには秋田県の美大が出てくるし、セブンイレブンや集英社など、実際に存在しているものが登場する。

さらには読者が、作者の個人体験を作品に反映していると読んでしまうと(ぼくもそのうちのひとりだ)フィクションと現実の境目はさらに曖昧になる。
『ルックバック』が現実に近い物語であると錯覚した読者は多かったと思う。

たぶん『ルックバック』は作品自体がリアリティを持ちすぎてしまい読者がフィクションとして通り魔を消化することが出来なくなってしまったのではないだろうか。

現実においても起こり得る、これは自分の物語かもしれない、と読者に思わせた作品だったということだ。

リアリティが凄すぎる作品だったことがむしろ“修正”という結果になってしまったことは皮肉としか言いようがない。
それほど『ルックバック』が読者にとって身近で現実だったということだと思う。

なぜこんなにもリアリティを感じるのか、と言えば作中の4コマ漫画や藤野が連載している「シャークキック」を“フィクション(虚構)”として引き立たせるために、“藤野と京本が生きている世界”は現実として描く必要があったからだ。

ただ何度も言うが我々は漫画の読者であり、『ルックバック』はフィクションだということは忘れてはならない。

藤野と京本が生きている世界はふたりにとっては現実だが、読者は『ルックバック』のすべてをフィクションとして消化すべきだと思う。

では現実とかけはなれたフィクションとして『ルックバック』を読むなら通り魔の幻聴設定はOKだったのか?という問いに対しては個人的にはYESだ。
ただ、堂々巡りになるが、「差別を助長する」という感想も読み手の感想の自由なので、
個人的には漫画はフィクションとして読むべきだとは思うがそれを押し付けることは出来ないな、とも思う。









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