悩みとも呼べないほどの

初めまして、カーディナルマンです。数年前からアメリカに赴任していて、あと2、3年はこちらで過ごしたいなぁと思っています。カーディナルマンなどと名乗ってふざけていると思われるかもしれませんが、その通りです。ふざけるのは楽しいです。

さて、記念すべき一発目の記事でこんなことを書くのはどうなのか、と思わぬこともないし、デリケートな話題ではあるのですが、人生ですから、ふざけてばかりもいられません。書こうと思います。

不妊について

私は妻と二人暮らしをしていて、子どもがいません。我々は昔から子どもたちと遊んだり関わったりするのが好きで、大人になったら普通に子どもができるものと当然のように思ったまま、気がつけば30代も後半に。現実というものは、なかなか思った通りに進まないものです。

日本にいた頃には、夫婦ともに異常がないかも検査してもらいましたし(二人とも異常はありませんでした)、人工授精にもトライしました。しかし、望んだ結果は得られませんでした。

アメリカに渡ってからも子どもを授かることはなく、今に至ります。

依然として子どもができないという現実に対し、不妊治療を受けることも考えました。しかし、経済的な負担が大きいんですよね。特にここアメリカにおいては、日本で想定される金額よりも遥かに高額になります。
経済的負担のみならず、妻の身にかかる負担も、我々の心にかかる負担も大きい。そしてそれだけのリスクを冒しても、子どもを授かる保証はない。

そんな条件の中で、「賭け」に踏み込む勇気がなかったのです。

幾度とない話し合いの中で、「子どもがいない人生であっても、二人だけでも楽しく過ごせるよね」という結論で合意し、毎日を楽しく生きています。

何故、子どもがほしいのか

ここからが今回の本題です。これを読んだ誰かは、ひょっとしたら不快な気持ちになるかもしれないことをお断りしておきます。
その時はごめんなさい。
ですがこれから語ることが、私と妻の悩みなのです。いやこんなもの、本来は悩みとさえ呼ぶべきではないかもしれません。それでもこれは、紛れもなく我々夫婦の心の中に巣食っていて、悩みと言って語弊があるなら、呪いと呼ぶしかないものです。

夫婦が、二人の血を引いた子どもを作ること。

今この瞬間、私と妻がこの世界に生きているのは、両親とその両親、そのまた両親、そしてその両親の両親、と延々と連なる彼らがこの営みを繰り返してきたからです。
だからこそ、私たちも大人になったらいつかは子どもができると信じてきたし、周りの友人たちもどんどんそうして自らの”血”を次の世代に繋いで行っている。日本に住んでいる友人たちも、同世代の赴任者仲間の夫婦も、次々と子どもを授かってゆく。

そのこと自体はとても祝福されるべきことだし、我々自身も心から祝福しています。赤ちゃんはかわいい。小さな彼らが内に秘めた無限の可能性に思いを馳せると、いつも、畏れのような憧れのような、静かな興奮を覚えます。

でも、その心からの祝福と同時に、心の奥の暗い場所で、どうしても身をもたげる感情がある。

また置いていかれてしまった、というような、ある種の疎外感・焦燥感にも似た感情。
妊娠・出産という、我々にとって未知で神秘の体験を経て新たな命を生み出したことへの羨望。
そして、いいなあ子どもに恵まれて、いいなあみんなから祝福されて、というどうしようもなく稚拙な妬み。

そしてそれに付随して起こる、様々な想念。

この歳で未だ子どもがいない我々を、彼らはどう見ているのだろうか?
育児の苦労を知らず、子どものために自らの時間を犠牲にせずに済んでいることを羨んではいないだろうか?
はたまた、子どもを授かる喜びを知らない我々を憐れんではいないだろうか?
我々の両親は、我々に孫を期待していないだろうか?
世間は、社会は、子どもがいない我々のことをどう見るだろうか?

幸いにも、私たちが誰かからこんなことを言われたわけではありません。そんな心ない輩が周りにいないだけでも我々は恵まれていて、だからこれらは全て、私の心の中から自動的に溢れてくる猜疑なのです。

夫婦であるならば、子どもを生み育てるのが当たり前。
夫婦であるならば、子どもを生み育てて一人前。
子どもを社会に還元するのが、夫婦としての責任。

その当たり前が、我々にはできない。一人前になれない。責任を果たせない。

この負い目のような呪いは、我々自身が長い時間をかけて我々自身の内面へ刻み込んだものに他なりません。だから、こんな呪いを受けてしまったと誰かを責められるはずもありません。

そして思うのです。
子どもが欲しい、と私が願うその動機の半分は、この呪いからの解放にあるのではないか、と。

周りの皆のように新しい命を生み出し祝福され、育児の苦労を味わいながらもその成長を見守ってゆく。その当たり前の世界に参入したいがために、私は子どもを欲しがっている。

しかし、そんな動機で子どもを欲しがるなんて、そもそも間違っているのではないか、と思うのです。
そんな理由で子どもを欲しがるのは、一個の命をまるで通行証や入門許可証のように扱っているようで、誠実さに欠けるように感じるのです。

しかし待ってください。よく考えると、むしろこんな思いは、私の中の狡猾さの顕れであることが分かります。
そんな不誠実な理由で子どもを欲しがるのは間違っている、という認識は、子どもを授からない現状を合理化するだけだからです。

子どもを欲しがる理由など、何であろうと本来どうでもいい話です。誰しもが自ら望んでこの世に生まれてきたわけではなく、それでも与えられた命を生きてゆくしかないのだし、両親がいかなる動機やきっかけのもとで子どもを生もうと、生まれた命はその思惑からは独立であるべきで、尊ばれるべきものだからです。

いや、尊ばれるべきって簡単に言うけれど、そんな中途半端な動機で子どもを授かったとして、そんなんで本当に子どもが自立するまでの人生を背負えるの? 幸せにできるの? 自信ないでしょ? だからお前には、子どもなんて授からなくて良かったんだよ。
という声が聞こえてきます。狡猾な合理化の声です。

幸せにできないなら、子どもなんて産むべきではない。

かつて、そんな風に考えていた時期がありました。安っぽい正義に基づく、浅薄な思考です。
その醜い思考が今や、私の現状を肯定するために働いています。

実際には、いかなる環境で子どもを生もうと、幸せにできるかどうかなど誰にも分かりません。誰しもが等しく幸せになる権利を持っていて、けれども何が幸せなのかにさえも個人差があり、人生のいつどこで何がそれをもたらすかなど、誰にも予知できないのです。

結局、子どもがほしいという願望とそれはもう叶わないという事実を取り囲み、当たり前のことができないという呪いと、その呪いを合理化するズル賢い声との化かし合いが、心の中で常に発生しているのです。

“血”の繋がった子どもがいなくてもできることはある。
人生を楽しむ方法もある。
そんなことは知っていますが、そんな言葉で両者の和解を図ることは、呪いによって受けた痣に絆創膏を貼るようなものです。

だから何

だから何なんだ、と言われても困ります。贅沢な悩みだとか、気にせずに生きたらいいだとか、不妊治療もせずに何だとか、育児の苦労を知らない奴の戯言だとか、色々な意見があるでしょう。

って、そんな意見を誰から聞いたわけでもないのに、私が勝手にそういう意見をシミュレートし、その存在しない誰かに対して勝手に気を遣っているのです。

何なんですか。これも呪いですか?

事実、私が抱えるような悩みなんて、別の誰かにとっては悩みでも呪いでもなんでもないでしょう。

例えば、結婚願望がありつつその相手すら見つからない人。
日本の時代遅れの法律のせいで、好きな相手と婚姻できない人。
不妊治療にも関わらず子どもを授からなかった人。
育児に疲れ、子どもなんて生まなければ良かったと思ってしまう人。
子どもに起因する人間関係に煩わしさを感じている人。
そもそも結婚とか育児とか、そんなことを考える余裕さえなく追い込まれている人。

そういう人たちの抱える悩みと比べれば、私の中のこの呪いなど戯言に等しいのでは? そんな風にも思います。

しかしその一方で、いかにも知ったふうな、物分かりの良さそうなお行儀の良い思考に対し、こうも思うのです。

黙れ、と。
いや違う、黙らなくていいですよ、と。

そもそも、各人の悩みを並べて比べるということ自体が間違っているのです。全員が異なる境遇、異なる性格、異なる主観の中で生きているのに、何を基準に悩みの比較などできるのでしょうか。
もちろん、誰かの主観を通して見れば、この一連の思考と感情など、恵まれた環境にいる奴の、小さな悩みに見えるかもしれません。
しかし、私という主観の中を生きている私が、この呪いを悩みだと言うならば、それは紛れもなく私の悩みなのです。

そして我々は、それを悩みとして吐き出したって良いはずです。

思い通りにいかない現実があり、その現実に対する個人の悲しみや落胆や葛藤がある。それだけの話です。

結論

この話に出口はありません。ただただ、私たち夫婦が直面している現実があり、その現実を拒否しようとする呪いと、受け入れようとする合理化があるだけです。

あれこれと考えてしまう間にも次々と現れる子どもたちは間違いなくかわいいし、育児に励む友人たちを尊敬しているし、応援したいと思っています。

どうしてほしいわけでもなく、どうしたいわけでもない。
アドバイスがほしいわけでもないし、慰めを求めているわけでもない。
世界を熟知している人からのお説教も要りません。

こんな我々に対し、世間や友人や我々の両親から何かを思われたとして、それがいかなる思考かを確認することに意味などなく、確かめる術など求めてすらいません。
誰に謝るつもりもないし、誰からの配慮も求めていません。

ただこの現実を生きてゆくだけ。できるだけ楽しく生きてゆくだけです。

死ぬまで出口がなかろうが、こんなこと大した悩みじゃないと思っていようが、僕は私はこういう気持ちを抱えてますよ、って吐露したっていいじゃないですか。

呪いを解くのは簡単ではないし、仮に解けたとしても、私の心は、きっと次なる呪いを用意しているでしょう。私の心に映り込んだ「社会」や「世間」によって、生きる限り呪われ続けるのです。

どうしたいのか、と言われても困るんですよ。それが簡単に分かるなら、こんな文章を書くことはなかったんですから。

強いて言うならばこの記事が、同じような気持ちを抱えているどこかの誰かに届けばいいなと思います。

それもまた、行き過ぎた願望なのかもしれませんけどね。

解決できないままの小さな悩みや、悩みとも呼べないほどの小さな呪いを抱えたまま生きていたって、別にいいじゃないですか。

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