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「全ては神の計画だから」

キリスト教の考え方として、「偶然」というものは存在せず、全ては神の計画に則った必然だ、というものがある。

全てが神の大いなる計画の下に起きているのだから、あらゆる出来事を、たとえそれらが自分の意に添わぬものであっても受け入れて生きて行こう、というものだ。

うん。嫌いな考え方じゃない。むしろ好きだ。
しかしそれはあくまで、自分で自分に言い聞かせる場合に限られる。

「全ては神の計画だから」

これは、他者に向けては言ってはならない言葉だ。
もしも私が辛い思いや苦痛の中にいる時に、「まままままま、これも神の思し召しだからサ、ね、さささ、ほら、美味しいものでも食べて、ね?」などと言ってくる人がいたら、私は、「うるせえ、じゃあその思し召しとやらが何なのか説明してみろ!」と怒り狂うだろう。

苦境にあってなお、それもまた神の計画の一端だと受け入れることができる人は、既に自らの中で覚悟や合理化が済んでいるか、もしくは既に諦めがついた、ある種強靭な心の持ち主だ。私自身にまだその準備ができていないのに、他人からそのようなことを言われたくない。押し付けられたくない。

神の大いなる計画などというものが本当にあったとしよう。
(私としては、あってほしいと祈っているが)しかし、かくも複雑化し、困難や苦痛や絶望が次から次へと生み出されるこの世界で、それを計画した神の意図とはいったい何なのか?
このことはクリスチャンの一大トピックであり、説明できる者などいない。
もしいたら、そいつはペテン師だ。

にも拘わらず、苦しむ他者に向けて「それもまた神の計画の一部だから受け入れなさい」などという言葉を放ったとして、それがいったい何の救いになるというのか。

「止まない雨はないですよ。知らんけど」
「よく分からないけど、きっといいことがありますよ」

苦しみの中でこんな無責任な言葉をかけられて、喜ぶ奴などいるか。
「そうですよね」とありがたがる奴がいるか。
救われるのは、言葉をかけた側だけだ。目の前で苦しむ者に対して何もしてあげられない無力感を神に責任転嫁して、何か言った気になって気持ちよくなっているだけだ。
そんなもの、弱さ以外の何だというのか。

これは、「神の計画」に限った話ではない。
苦境の真っ只中にいる人に、安易な正論や机上の空論に基づく解決策を提示する人たちがいる。
間違いなく彼らも同類だろう。中途半端な優しさに突き動かされた弱い者たち。目の前に提示された苦しみに寄り添うだけの強さがないのに、何とかしたいと思ってしまう。その結果、安易な言葉で無力さを取り繕い、あまつさえ何か言ったつもりになって気持ちよくなろうとしてしまうのだ。

かく言う私自身もよくやってしまう。
たとえば悩みを告げる妻に対し、彼女が抱えるあらゆるしがらみを無視した正論や理想論に基づく解決策を、さも得意げに語ってしまったりするのだ。

まったく、情けない話である。強くなりたい。
寄り添うだけの覚悟や強さがないなら何も言わず、黙って頷きながら話を聞けたほうが、一億倍マシだろう。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

ヨハネ 1:1

ならば、言葉以前に立ち帰った方がいいのかもしれない。自分以外の誰かに寄り添い、救いたいと願うなら、まずは沈黙を以て相手の言葉を聞く以外にないのではないか。

せめて自分の無力感くらい、安易な言葉で他者に押し付けることなく、自分で引き受けなければならないだろう。アーメン。

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