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少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド: 感想&妄言キリンという劇場関係者と悪魔の重ね合わせ

0: はじめに

少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンドを観ました。コロナの影響で観客が少ないのかオタク界隈ではかなり大きな盛り上がりがあったとはいえ深夜アニメの再生産総集編なんて観たい人が少数派なのかわかりませんが、映画館には3、4人くらいしかいなかったです。密を避けるという点でも嬉しかったし、なによりも大スクリーンを独り占め(3人占め?)できたのはなかなか良い体験じゃなかったのかなあと思います。まあ行きの電車とかで十分に密ではあったのですが。

初めてこういう感想を書くので作法がわかりません。普段私はSCPを書きながら、マンガとアニメを見て暮らしています。マンガとアニメを見ることで生じた感想は、Twitterでなんとか小出しにしながら出力しています。ただ、Twitterでぐだくだと妄言を垂れ流すよりかは、参照性が高いこのような場所を設けて、より使えるような妄言を吐こうと思った次第です。どちらにせよあまり良いことではないですが。感想は生ものといいますか、一応映画を見て帰ってきてその日の内に書いていますが、クソ雑魚暗記力なのでうろ覚えで書いています。また、ロンド・ロンド・ロンドの単体の感想というよりかは、改めてこの作品を見てどんな風な感想を抱いたのか書こうと思います。

1: キャラ萌えって何?

一言で言えば面白かったです。具体的には作画と構図と音楽と声が神な作品です。作画は別に新海誠作品みたいにとにかく美麗であるとか、ポプテピピピックみたいに斬新なものであるとか、という話ではありません。単純にこれは私がキャラが好きであるというだけです。純粋に好きなキャラクターは星見純那さんです。メガネっ娘いいですよね。シェイクスピアとかニーチェとかを空で引用できる人間なのも私的には良いポイントです。この手のキャラクターは「真面目」とか「堅物」とかのロールが当てられそうではありますが、彼女は「真面目であり熱血」です。そのことがアニメでも映画でも早期の方で明確に示されてます。いわゆる飛び入りである主人公華恋に対して、彼女は華恋の態度に対して反感を抱いています。

それが決して正しい感情でないのも含めていいですよね。世の中には飛び入りで才能を見せつけていきなりトップに立つような人間もいるわけですし。ともあれ、「真面目であり熱血」な星見純那は、コツコツと積み上げるようにして努力してきました。

というわけで私は純粋なキャラクターとしては星見純那が好きです。あえて純粋なキャラクターと述べたのは、それ以上に個人的に好きなキャラクターが存在するからです。それはキャラクターに重点を置いた見方ではないため、純粋なキャラクターとしての好きではないのでしょう。私はいわゆるキャラ萌えをベースにして作品を話していないので、数少ないオタク友達と話していてもどこかズレているように感じています。星見さんがかわいいということはわかるのだけれども。

9人の魅力的な舞台少女というキャラクター以外にもこの物語に不可欠な存在がいますよね?

2: キリンという劇場関係者と悪魔の重ね合わせ

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キリンです。私はキリンというキャラクターがこの話を端的に表した象徴的な存在として大好きです。これが生み出された時点でもはや満足しています。今からそれを順を追って説明したいと思います。

モブキャラクターなはずの警察の2人でさえ徹底的に男性を排除したオタクの花園とも呼べる空間がこの物語には存在します。しかしそれには1つの問題点があります。それは「少女だけのアニメを作りたい」という要請と作中でも述べられた通り「舞台には様々な人が関わっている」という事実が存在していることです。これらの問題は別にこの作品に限ったことではなく、たびたびTwitterでも見かける数々のソーシャルゲームも悩まされています。それがあるキャラクターの父や弟であれば、単に排除すればいいのですが、プレイヤーの視点役となる主人公はどうしても排除できません。

こちらが参考になるかもしれません。とはいえ、この作品はソシャゲではないので視点役割は不必要です。ではキリンは何なのか。それは視聴者/観客としての存在の凝縮であるとも考えられます。

それではキリンが本当は何なのかについて考えます。いきなりアクセルを踏むのもあれなので、個人的キリンの好きなセリフをランキング形式で並べていきます。映画館でメモするわけにもいかないし、正確な言葉はうろ覚えですが許してください。

3位: 開演5分前です。大葉ナナさん

まずこれです。このセリフは大葉ナナ(以下、バナナ)が舞台少女であるという前提がないと成り立ちません。舞台少女は演じる人間の比喩表現として機能しているので、単純に開演5分前であることを伝えようとしているキリンは演劇関係者であるということがわかります。演劇関係者には役割も性別も様々な人間がおり、それらがキリンという動物にまとめられているのは面白いです。花園に無骨な鉄骨が刺さってるみたいな芸術性を感じます。

2位: もう少しはっきりと大きな声で申し上げていただきませんか?

このセリフ大好きです。マスクの下でニヤニヤしていました。詳しくこのセリフの時の状況を説明すると、バナナは自身の運命的な状況についてボソッと何かをつぶやきました(これがなんだったのかは思い出せませんでした)。バナナはこのことについておそらくキリンに伝えるつもりはなかったのだと思います。故に聞こえないように小声で言いました。この作品に出てくる主役格の9人の少女らは、アニメ的な表現の影響を受けており、さらには本質的に「舞台少女」であるため、やたらとそれが劇場の動作でなくとも、演劇じみたアクションを行うことが多いです。真矢さんの伸ばしたような言い方にその片鱗を感じませんか?普段の彼女らは物事をはっきりとハキハキとして喋ります。その中でバナナはボソッと喋ります。彼女はこれを伝えたいという意思で発言していませんでした。

その時のキリンのセリフがこれです。バナナおよび残りの舞台少女たちはいかなる場合でも、舞台少女であるためにキリンはハキハキと喋らないことを許しません。キリンの立場と舞台少女の立場両方が出た名セリフです。

1位: わ”か”り”ま”す”。これこそが運命のレヴュー!

華恋が戯曲「スタァライト」を英和翻訳することで、悲しいエンディングを解釈し、自分の好ましい終わり方に「再生産」したシーンで出たセリフです。キリンは「運命のレヴュー」を求めていることを割と早めから公言しているのですが、キリンの視点でそれを考えるともはや涙が出てくるくらい感動しました。物語的にも華恋がひかりを救い出そうとするところで、なかなか良いシーンなんですが、私はキリンに感情移入して泣いてました。それを説明するためにキリンが悪魔であるという解釈を用いて説明します。これは単にキリンが少女たちを戦わせる悪魔的な存在であるということを意味しません。何を言ってるかわからないと思いますが、とりあえず次の項を読んでみてください。

3: 悪魔契約の穴をついて再演を繰り返す方法

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悪魔は古来から存在する伝説上の存在で、契約によって人間に利益をもたらす一方で、最終的には人間に破滅的な結果をもたらすことで知られています。例えば古典的には「ファウスト」のメフィストフェレスが代表的でしょう。この時の契約内容は「ファウスト博士の死後の魂の服従」を引き換えに「この世のあらゆる感情を享受させる」ことでした。近年のサブカルチャーでは「チェンソーマン」とかですね。主人公デンジはチェンソーの悪魔と「デンジの夢が実現するところを見せる」ことをコストとして支払い、「チェンソーの悪魔の心臓」を対価として受け取りました。

悪魔について着目したいのは契約には厳密であるということです。また、先述した例により「悪魔とはコストを払うことで何らかの成果をもたらすシステム的存在である」と解釈することができます。この文章は悪魔が人を破滅に導くことを好む存在であることを省略していますが、今回に限ってはそれは問題となりません。悪魔はルールを厳守しますが、それぞれに明文化されない細かいルールがあるため、契約者をたびたび混乱させます。

この解釈を用いればキリンは悪魔システム的な存在です。キリンは「きらめきを失う可能性のある戦闘行為」を対価として払わせる一方で、「トップスタァに慣れる権利」を成果として提供します。キリンは主な利益として徴収したきらめきを舞台運営などに利用しており、それをさらにレヴューに用いています。

しかし、キリンには普段の「きらめきの徴収」よりはるかに重要な大目的が設定されていました。それは「運命のレヴュー」を発見することです。それが何故なのか作中で明らかにされることはありませんでしたが、キリンを悪魔システム的な存在として捉えるとなんとなく理解できます。何でも願いが叶えられる悪魔が人にわざわざ契約を結ぶのは、人の魂がなによりもオリジナリティのある存在であるからに他なりません。キリンも何よりもオリジナリティのあるレヴューを探していたのだと考えられます。主人公華恋のやった「再生産」の正体は戯曲「スタァライト」を英和翻訳し、新しいエンディングを解釈することでした。これはおそらく「新しい物語を自分で紡ぐ」についで2番目にオリジナリティのある行為です。99期生の聖翔祭は3年間スタァライトであることが決まっていたため、これはルールを守りつつ華恋ができる最大のオリジナリティのある行為です。

ともかく、キリンは「運命のレヴュー」を見たくて仕方がありませんでした。そのためにいろんな努力をしています。日本だけではなくロンドンにも同じレヴューがあるのは、株で言うところの分散投資というやつでしょうか。ですがその途中でキリンには回避できない「バグ」が生じてしまいました。

バグとは何か?それはバナナが対価として請求した「再演の願い」です。これはキリンにとって好ましくないものでした。しかし、悪魔的システムであることころのキリンは契約を遵守するため、正当な対価を支払ったバナナの要求を跳ね除けることはできませんでした。バナナの要求する「永続する再演」を実現するために、キリンは時間ループ構造を施工しました。これは1つの願い事に1ループのみの契約内容でしたが、バナナはループ中にも新しく契約を結べるため、何度もそれを繰り返すことができます。契約の穴。本来一年のレヴューにつき一度しか叶えられない願いを何度も叶えさせるバグ。それは願いそのものを何度も繰り返させることでした。

キリンが寿命の概念を持ち合わせているかはわかりませんが、彼は「運命のレヴュー」を見ることを目的としているため、計画遂行のためにはバナナの契約を破棄させなければいけません。この時点のキリンは、停滞を望んでいるバナナは「運命のレヴュー」に発展する可能性が著しく低いと判断しています。これは「停滞は何も産まない」という作中のテーマとも合致します。彼は大目的を達成するために非効率な要素を排除することに決定します。

そのために用いられた方法は部外者をレヴューに参入させることです。まず彼が持つまた別の資産であるロンドンの「王立演劇学院」から敗北者を引っ張ってきます。本来ならば、ひかりはきらめきを恒久的に失う予定でした。そこでキリンはあくまでも寛大な態度を取って、チャンスをもう一度与えることを彼女に提案します。そして聖翔音楽学園への移籍が実現されます。

これらがキリンの取った合理的な挙動です。首尾一貫して、契約はキリンからは破棄できないことが示されています。これはキリンが「先払い方式」の悪魔であることも関係しており、先に対価を払われている以上、キリンは「スタァ」となったバナナの要求を跳ね除けることはできません。

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別のサブカルチャー作品の「魔法少女☆まどかマギカ」に登場する悪魔であるキュウべえが、後から魔法少女という労働に従事させる後払い方式であることを考えてもそれは対照的です。キュウべえはあらかじめ魔法少女の真実について伏せておいた上で、後から開示するといった戦略が可能です。一方で、キリンは先に戦いをさせなければいけないので必然的に舞台少女というニッチな顧客層を狙わなければいけませんでした。舞台少女は魔法少女とは違って、最初から覚悟が決まっています(そのため、後から魂のありかについてゴタゴタ言いません)。もしあなたがサービスのどちらを選ぶか考えるのであれば、自分のパーソナリティを鑑みた上で選ぶことが大事だと思います。キュウべえはほぼ何でも叶えられますが、キリンは舞台に関係することしか叶えられません。しかし圧倒的に良心的なのはキリンでしょう。

結果的に、ひかりというイレギュラーは大目的を達成させることにつながりました。キリンは「運命のレヴュー」を目にすることで満足を得ることができました。

この物語では少女たちの感情的な帰結の結果それがどのように決着がついたのかを克明に書いています。しかし、それとは別にキリンは感情ではなく合理的な帰結によって目的を果たしたことを忘れないでください。また、キリンは悪魔であるのにも関わらず、少女らにあまり破滅的な結果をもたらしていないのは、キリンが最初からそれなりに良い契約をしていたからだと思います。例えば石動双葉は「花柳香子」についていくために、入学したというかなり共依存的なキャラクターですが、その歪な関係はレヴューによって、あるいは彼女の入学後の努力によって、是正されていきます。キリンは悪意を根本的に持っていません。

4: ではその次にあるものとは?

ここまでで私の言いたいことは大体言えました。それではロンド・ロンド・ロンドで追加された最後のシーンについて軽く言及して終わります。キリンは演劇関係者と悪魔の重ね合わせであるということはタイトルでも述べました。それに加えて視聴者としてのキリンもあると思っています。ソシャゲの男性性について少し触れたのはこれが理由です。

演劇には演者とその関係者と観客がいるというのは事実です。これまで展開された話は演者とその関係者を意識した話でした。そのため、私は次の完全新作の映画は視聴者と演者の関係に焦点を当てたものだと考えています。それの根拠は実は少しだけあります。

・ キリン「ワイドスクリーンバロック」
・血塗れの主人公、悲劇的に終わる物語
・終わらない物語についての言及

これらのことから次のテーマは「観客の暴走とキャラ(=舞台少女)の死亡」になるではないかと。ワイドスクリーンバロックはスペースオペラの亜種のようなもので、結構昔に流行ってました。私は読んだことはありませんが、読んだことがある人と話したことはあります。現代の諸氏にわかりやすく言えばスターウォーズみたいな宇宙冒険譚というようなものでしょうか。この例えはあまり適切ではなく、文学としての立ち位置的には今でいうなろう小説みたいなものであると言えましょう。それらの作品の文字数は10万文字くらいまでと非常に長大であり、タイムトリープなどが絡むことにより脚本が複雑です。本作もタイムリープを用いていますが、我慢できなくなった観客がさらに物語を長大化させるという…

つまり私が今やってるようにキリンが悪魔であるという設定を付加したりするのではないでしょうか?まどマギのキュウべえは宇宙の熱的死を阻止するために、エントロピーをなるべく減衰させようとしています。本作はSF作品ではないために、まどマギがキュウべえに対して試みたようにキリンのその目的とは何かについて明かすことはありませんでしたが、ワイドスクリーンバロックは純然たるSFの用語であるため、少女歌劇レヴュースタァライトという作品がワイドスクリーンバロック化されることで、これについて明かされるとも十分に考えられます。

そうでなくとも何故キリンはペラペラと喋るのかという疑問もあります。それらが今作では綺麗にまとめられていましたが、観客が考察の手を止めないばかりに、そして脚本にまで影響を与えて話を膨らませまくるみたいなのを想像しています。その結果、キャラとして使い尽くされた舞台少女は死ぬのかもしれません。

私のようなオタクに対して、ある時のエヴァのように「現実に戻れ」と勧告するのかもしれません。何はともあれ完全新作結構楽しみです。






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