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ゆびきり【ショートショート】

「おおい、ちょっと。誰か、おいちょっと!」
休日の朝のまどろみは、義父の呼び声でいきなり遮断された。
隣に寝る夫を見れば、深く眠っているふりをしているのか、または単なる無視なのか。どちらにしても動く気など1ミリもないその背中に、わざと大きなため息をつき、カーディガンを羽織って部屋を出る。

「お義父さん、どうしました?」
「今朝は随分と寒くないか?かなり冷え込んでるぞ。」
「ストーブ点けますね。」
お義父さんが自分でも点けられるストーブをねと、漏れそうな言葉を何とか押しとどめる。

勤務地が関西に決まった息子が家を出たのと交代するかのように、義父との同居が始まった。
義母が亡くなって3か月。1人がいいと強がる義父をなだめて我が家へ迎えた頃は、心から大歓迎の同居だった。夫と2人きりの生活は、想像するだけでどうにも気詰まりだったから。
だがやはり同居は、始めてみないと気づけないことがあまりに多い。毎日が困惑の連続だが、それでも義父自身に対しての苛立ちは、不思議と感じなかった。

目が冴えてしまって、何となく台所に立つ。
ガガガッ。材料を投入し、捏ね始めて3分ほど過ぎたホームベーカリーから、聞いたことのないような鈍い音。蓋を開けて中を見れば、少しも回っていない。
あーあ、故障?それにしてもこの材料、一体どうしてくれるのよ。
すべてに失望しながら、手のひらにも指の間にも張りつくベタベタの材料をシンクの上に取り出し、やけっぱちで捏ね始める。

えい。やあ。それ。
こいつめ。みてろよ。

捏ねながら、リズムにのってきた。

ちっとも。みてない。
なんにも。わかってない。

テンポよく拍子をとれば、指に力が入る。
いつもホームベーカリー任せだったが、手で捏ねるのも案外楽しい。

わたしを。みてない。
なのに。なんで。

ふと我に返り、夫と辿ってきた今日までの道のりを考える。
同僚だった夫を初めて異性として意識したのは、その美しい指だった。長くしなやかで程々に力強さもあり、とても艶っぽい指。
やがて結婚することになり、初めて会った義父もまたそっくりな指を持つ人だった。

長い月日の過ぎる中で、相手の指のことなどすっかり忘れ去っていた。
どちらかと言えば短く不恰好な自分の指。その不つり合いな指と指とを絡ませて、命の尽きるまで共に生きると約束したはずではなかったか。
いや違う。そうではない。
指の美しい人と意識して、いつしか付き合うようになり、まもなく私の中には命が宿った。だから指切りもせぬまま結婚し、ここまできてしまったのだ。

指切りをしよう。今からでも遅くはない。
この先も共に生きていくのなら、互いに正面から向き合う約束をしたいと夫に告げよう。



焼き上がったパンの香りに背中を押され、起きぬけの夫に「指切りしない?」と訊いてみた。
意外にもあっさり差し出した夫の小指が、今も美しいから一瞬とまどう。
相手を正面から見ていなかったのは、私も同じだったのかもしれない。



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今回も素敵な機会を与えて下さり、どうもありがとうございました。

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