たったひとりに、確かに、強く、届くもの
情報が、溢れかえっている。
大切な情報も、求めていた情報も、
興味のない情報も、不必要な情報も、
全部が等しく、流れてくる。
ありとあらゆる知識、ぶつけられた怒り、
遠くの誰かの、小さな喜び。
何を受け止めたらいいんだろう。
私は何を求めているのだろう。
考えているうちにも、
次々と流れ、まばたきしている間に
もう、遠くまで過ぎ去っている。
何十億人の言葉が、迫っては、
あざ笑うこともせずに、去っていく。
混乱する。
たった100人の、集落の人たちの名前さえ
まだ覚えられていないというのに、
私は何を求めてリンクをクリックし、
画面をスクロールしているのだろう。
*
ウェブの言葉に、空虚な気持ちを覚えるようになったのは
いつ頃だっただろうか。
Wi-fiの飛ばないどこかに行ってしまいたい、
と本気で思ったことさえあった。
SNSへの投稿は、激減した。
それなのに、私自身の仕事の半分が
ウェブに掲載する言葉の執筆なのである。
つまり私は(意図的に)情報を流している側なのだった。
自己矛盾の渦に巻き込まれて、
私はグルグル回り続けた。
どこにも行けない。どこに行きたいのかもわからない。
グルグル グルグル
やがて、その音すらも聞こえなくなった。
*
今思えばだが、
ウェブの言葉が、情報として「処理」されていくことに
私は違和感があったのだろうと思う。
その乱雑さが、無自覚の暴力として表出していくことへの、
恐怖があったのだろうと思う。
言葉とは、怖いぐらいに強いものだ。
形に残る、という圧倒的な確かさ。
絶対に、間違えてはいけないもの。
けれどもその分、ときに誰かの弱さを包み込み、
ときに誰かの背中を押してくれるものでもある。
そう、間違えなければ。
描かれた世界は、ぶれない芯を持ちながらも、広がっていく。
*
「ウェブの言葉には、身体性がない」
渦の中で回り続けていたとき、
ある舞台の演出家から聞いた言葉だ。
その瞬間、渦がスローモーションになって、
出口が、わずかに見えた気がした。
ウェブの言葉を、なぜ私は「情報」だと思うのか。
「言葉」ほど、確かなものはないはずなのに
なぜそれは、受け止めようとしても流れ去っていくのだろうか。
その答えが、つまり身体性なのだと思った。
その言葉が伝えたものは、
(私にとって)圧倒的に確かで、力強かった。
身体性を意識するようになると
多くの情報のなかから、
求めていた言葉たちが浮き上がるようになっていった。
言葉という形あるもののなかに、
書き手の魂が宿っているもの。
読み手への愛に溢れているもの。
客観性と情熱が、同居しているもの。
楽しんで書かれているもの。
なにより、
たったひとりに、確かに、強く、届くもの。
見えないものが伝わってくる文章に
身体性を感じるというのも妙な話だが、
結局、心と身体があってこそ、
そこに命が宿るということなのではないだろうか。
そして私も、そういう言葉を紡ぎたいと思った。
いや、ずっと紡いできたつもりだ。
しかし、それにはっきりと気づかされた今、
改めて、私が本当に言葉にしたいことはなんなのかに
向き合いたいと思った。
流れというのは、自然に生まれるものなのだろう。
greenz.jpという、それこそ身体性のある
稀有なウェブメディアで知り合った私たち5人のライターは
同時期に、ただただ、言葉に向き合おうという場を
つくりたいと思っていたような気がする。
「水澄む草青む」は、そうした私たちの対話のなかから生まれてきた。
身体性のある言葉を紡ぐ5人が
ひとつの媒体をつくる。
この場に綴られた言葉が
たったひとりの心に水滴を落とし、
波紋となって広がっていく。
私は、5月の新緑の季節を想像する。
萌黄色の若葉が太陽の光に照らされ、
生命力を爆発させるその下で、
ひっそりと、けれども確かに流れる
ひと筋の水脈となるような。
そんな願いを込めて。
書き始めたいと、思います。