見出し画像

ムーン・リバースメンター

 早い話、彼女は先生。または窓、あるいは眼鏡のレンズみたいなもんだった。何のこっちゃ?
 先生です。と紹介しても、冗談にしか取ってもらえなかった。どころか、明らかに僕より年下の彼女の毅然とした立ち居振る舞いが、人によっては尊大に映ったらしく。僕の説明不足のせいで、申し訳なく思っている。
 リバースメンターで良くない? 生憎、そんな気の利いたボキャブラリ―は持ち合わせなかった。というか、そのような制度を採用している国は未だなかったか筈だし、言葉自体なかったか、あったとしても一部でしか通じない専門用語や隠語の域を出なかった。んじゃないかな。
 タロットを習っている。メディテーションの指南を受けている。などはすんなり通じたが、呆れられたり、引かれたりすることも多く。後で呼び出され、
「お前に言っておきたいことがある」
などと、頓珍漢な説教を垂れはじめる年長者やなんかもいて面倒くさいので、このへんの話をする際は相手を選ぶというか、慎重になった。
 簡単に話さなくなると、かえって勘違いや勘ぐりが増えた。妹さんいたんだ! つきあってんの? 年下の女性を妹になぞらえる例は珍しくないし、多少とも面識のある人間なら漏れなくつきあっているとも言える。
 タロットリーディング、メディテーション、プログラミング、ボルダリング、ブックキーピング……。特定の領域で何らかのスキルを教授してくれる講師やインストラクターの類ではなく、それらの学びを支援してくれるファシリテーターでもなく。彼女は言葉と仕種で《すべて》に触れた。または、存在そのものが《すべて》だった。あるいは、僕自身が彼女を《すべて》として見ていたということかも知れない。実際、自分は今《すべて》である彼女を通して世界を見ている。そんな気のする瞬間があり。
 彼女の中に、小さな秘密の窓がある訳じゃない。彼女のすべてが窓なのだ。彼女を通して見ると、世界は鮮やかに一変した。直接見るより何かを通した方が鮮やかに見えるなど、比喩とは言えおかしい気もするが、船底の硝子越しに見る海の中が、それまで見たこともないほど圧倒的に鮮やかだったりするように、彼女の《すべて》が、世界にたゆたう波のようなノイズをキャンセルしてくれたのかも知れない。
 世界の鮮やかさが増す感じについて、もう少しだけ説明させてほしい。単純に色彩が鮮やかになるだけじゃなく、それまでぼんやりしていたあらゆるフォルムの輪郭が、ビッとシャープに立ち上がる感じで、鮮やかと言うよりクリアな世界が立ち現れ、僕は、いつでもそれを眺めているという訳。ボケて見えていた対象にピントが合ってくるというか。その意味でやっぱり、彼女は眼鏡のレンズ。みたいなもん。
 世界がそれまでよりクリアに見えはじめるということは、それまで見えてなかったものが見えてくるということ。当たり前の話だが、光がなければ何も見えない。でも、眩しいと目がくらむ。目がくらまなくても、太陽の光を浴びると消えてしまう何かがある。そこを彼女は、月のように、天井や壁面をやわらかく照らす間接照明のように、絶妙に照らし出してくれる。その意味で、彼女は月でもあった。下敷き越しに観察する太陽が月そっくりだったりするように。
 早い話、彼女は僕にとって先生または窓、あるいは眼鏡のレンズみたいなもんであり、一言で片づけるならリバースメンターである。
 彼女は、月のように世界を照らし、僕を導いてくれた。


「ついて来いよ」
 振り向きざまに、短い右腕を回しながらそう言う半裸の幼児体型は、さっきひろげたカードの中から現れた小便小僧モドキ。
 当時僕は、友人が経営するバーで週末占い師をしていた。週末占い師をやらないかという話は、友人から直接ではなく、〈一言で片づけるならリバースメンター〉の彼女を通じてもたらされた。何で? 説明しよう。

「タロットリーディングやってみない?」
 いや、僕にとってのタロットカードは、あくまでメディテーションの補助ツールだから、それはちょっと……。と、お茶を濁したところ、
「リカオさんが期間限定でバーをはじめるのは知ってるよね」
 その話なら聞いてるけど。
「この前、工事中の店内見せてもらったんだけど、小上がりの畳コーナーがあって、そこを占いスペースにしたいんだって。で、誰か良い占い師いないかなって言うから、キミを推薦しといたよ」
 あのなあ、と出かけた言葉を飲み込み、僕は冷静に抗議する。推薦しといたよって、僕は占いなんて一度もやったことないし、できる訳ないでしょ。
「できるよ。ま、やりたくなければやらなくても良いんだけどね」
 相変わらず彼女は冷静沈着、毅然とした態度を微塵も崩さず。僕は、タロットカードのスプレッド即ち並べ方も、一枚一枚の意味も、まったく知らなかった。
「やったことないもんね。よし、これからおぼえよう」
 爽やかなまでに、平然と言ってくれる。
 呆れる僕を無視して彼女は、縮尺が狂ったトランクみたいな小さめの手提げから一冊の本を取り出すと、
「まずは、これに書いてあるカードの意味を全部おぼえて」
と僕に手渡し、続けた。
「大丈夫だよ。英単語や世界史の年表を丸暗記するみたいな意味のない努力とは違うから。でも、《全部》だからね」
 何が可笑しいのか、薄笑いを浮かべている。
「自分のカードの絵を見ながら読んでって。なるほど、そう言われればそんな感じするなって思えたら、もう、そのカードは飛ばしてOKだからね。次はスートごとに、エースから順番にザーてストーリーを感じてみて。感じるだけでOKだから。あとはえーと……そうそう」
 今度はバイブルサイズのバインダーからリフィルを一枚外すと、水性ボールペンでシャラシャラと何か書きつけ、
「はい」
と手渡してくれた。見ると、《わたしのやり方のケルト十字》とあるタイトルの下、タロットカードの並べ方が図示してあった。
「このやり方でスプレッドして、順番に読んでいってください。別に反対向きでも良いんだけどね。それぞれのカードの意味はわかってるから。って、ちゃんとおぼえられたらの話だよね。まあ、それはそうなんだけど、さっき言った通り、何となくそんな感じしたら、本に書いてあることを一字一句暗記する必要なんてないんだし。難しくないよね。あ、でも、カードとカードの《間》を《つなぐ言葉》は、絶対オリジナルにしてください。

 たぶん、三日後ぐらい。件の友人と、とあるバーで落ち合う約束をしていた僕のポケットには、リバースメンターに連れて行ってもらった店で買ったひと組のタロットデッキがあり。その中の気になる一枚を、ハーパーソーダ飲みつつ何とはなしに眺めていると、
「頑張ってるな、試験勉強」
 友人が、現れるなり訳のわからないことを言いはじめた。
「いやあ、キミの先生、なかなか厳しそうですね」
 思わずむっとした表情、をしてしまったんだろう。
「いや、でも、何にせよきっちりしてんのはええこちゃ」
 ともかく、僕は説明を求めた。
 聞けば、間もなくオープンするバーの週末占い師として僕を推薦した彼女は、僕について、大丈夫とは思うが本当にお金を取って良いレベルかどうか、念のため自分が確認した上で判断する、と言ったらしい。なるほど、知らないのは本人だけという訳か。週末占い師の話に、まんざら興味がない訳でもなかった僕は、〈間もなくタロットリーディングのテストを受ける人〉として振る舞うことにした。
 そうなんだよ。メディテーションのツールとしては、しばらく前から使ってるけど、リーディングとなると、自分の中でイメージングするだけじゃ済まないから結構大変で。
「ハーパーソーダなんか飲んでる場合じゃないかもね」

「わたしの今の状況、どんな感じか見てください」
 全般運てこと?
「当てモンじゃないんだから。よくわからない運勢とかじゃなくて、今のわたしの状態、置かれている環境、周囲との関係とか《全部》」
 とにかく、教えてもらった通りにというか、初めて見たとき印象的だった彼女の手つきを真似て、左回りにカードをシャッフルし《わたしのやり方のケルト十字》にスプレッドする。どっとイメージが押し寄せるが、言葉に変換することはできず。
「どう?」
 変換できない。だから、僕は喋れない。どう? って、だから、こんな感じ。
「OK。じゃあ、週末占い師、頑張ってください」
 え? まだ何も言ってないんだけど。
 以上が、彼女の確認と判断だった。
「さすがだね、しっかり出てるわ」

 こうして、期間限定バーの週末占い師となった僕は、相場から見てたぶん高くない、いくらかの代金をもらいながら、何人もの客を占った。場所柄なのか、恋愛もしくは職場の人間関係含む仕事絡みの相談が多かった。個々の内容については個人情報に該当するので、ここでは触れない。
 そんなことより、あの小便小僧モドキだ。
「ついて来いよ」
と、そいつはぬかしたが僕は無視した。どうせ、一人でそう遠くまで行けっこないだろうから。とは言え、万が一見失ってしまったらどうしようという不安はあったけど。ありつつ、僕は《鑑定》を続けた。
「鑑定料はおいくら万円ですか」
 ある日、そう尋ねられた僕は、それまでセッションなどと言ってたけど、この言い方も悪くないと思った。何というか、こう、和蝋燭や袴なんかが似合いそうでもある。
 僕は時々外へ出て、通りの様子を伺った。ぷよっと下腹の出っ張った幼児体型のそいつは、いつも相変わらずそこにいた。
 ある時など、流石に退屈過ぎるのか、ほぼ全裸のまま咥え煙草でアダルト雑誌をめくっていたので、僕はそれらを取り上げ、注意した。路上での喫煙は千円の罰金。しかも未成年だから、問答無用で即補導だ。
「大丈夫。俺のことなんて、お前以外誰一人見ちゃいないよ」

 何でメディテーションの補助ツールとして、タロットカードを使っていたか。それもまた、リバースメンターの奨めだった。
 その頃僕は、ヨガや禅の瞑想法などを紹介している本や雑誌を参考に、よく我流で座ってみたりしていたが、進捗は芳しくなく。軽く目を閉じる、または半眼の状態でゆっくり呼吸すると、そのままの姿勢で眠りに落ちるまでそう時間はかからなかった。
「だったら、しっかり目を開けて、何か見ながらやれば良いんじゃない」
 例えば、どんなものを?
「そうだなあ……」
 彼女は《七十八のパーツから成る全宇宙の模型》とか言ってたけど、まだるっこしいので《宇宙儀》で済ませることにしよう。ともかく僕は、それを見せてもらえることになった。
 待ち合わせのティールームに着くと、まず彼女は、手提げの中から取り出したカードの束を、小さなタイルが装飾的に散りばめられているテーブル上に置いた。《宇宙儀》は?
「だから、これがそう」
 見たところ、ただのタロットカードだった。左隣りのテーブル席では、学生たちがフランス語の追試対策について話し合っている。僕は何だか、騙されたは言い過ぎかも知れないが、はぐらかされたような気がして、運ばれてきた青島ビールをデュラレックスタイプのガラス器に注いで一口飲んだ。
「七十八枚で構成されたタロットデッキは、人間に知覚できる世界の在り様《全部》を、完全に指し示すことができる宇宙模型です」
 彼女は、そう言ってカードの山を、そっと楕円形に拡げるように崩し、両手でかき混ぜはじめた。まるで、神視点から俯瞰する世界の設定を、一つひとつリセットしていくように。
 かき混ぜられたカードの一枚一枚が、それまでのしがらみから解き放たれ、思い思いに喋り出すかと思った。僕が、相談者を占う際に行うシャッフルは、この時の彼女の、物語の封を切るような印象的な仕種を、マニキュアの色ごと真似たものだ。
 かき混ぜられたカードは次に、オモテ面と言うのか一枚一枚違う絵柄が見えるように並べられた。その後のことは忘れた。まあ、憶えていたとしても書かないけど。

「疲れたときや気分が落ち込んだときは、自然がいっぱいあるところへ行って、力をもらうと良いよ」
 彼女はまた、そんなことも言った。近場にはないな、と僕は少し投げやりに返した。
「別に、ニュージーランドへ行けとか屋久島へ行けとか言ってる訳じゃないし。有名な自然スポットじゃなくても、ちょっとした公園や、もっと言うなら、樹があってベンチがあればそれで充分だから」
 で、軽い食べ物やワインなどを買って、結局はピクニックのようなことに。黒猫ラベルの白ワインにしようよ、などと提案するときのリバースメンターは、きゃっきゃとまでは言わないが、年相応に少女少女していて。果たして、飲酒は合法だったんだろうか。
 大したことじゃないが、少しだけ困った点があった。そんなふうに適当に選んだものを適当にカゴに入れて持っていくんだが、レジに到着した時には、確かに入れた筈のローストビーフなど肉っ気のものが一つ残らず消えている。
「テレビの特番で見たんだけど。間もなく自分は殺されると察知した牛が、悲痛な声で啼いているところ。あんなの見ちゃったら、とても食べられないよ」
 そんな訳で、それまで苦手だったチーズが食べられるようになるなど副次的なメリットも少しだけ。ともかく、そんなふうにして僕らは、メディテーションともタロットリーディングとも直接には関係ない、他愛ない話をたくさんしていた。

 その後、僕は、彼女が〈自然に力をもらって回復する〉ことにこだわる切実な理由を知ることになる。良くも悪くも〈感受性の強い〉女の子だったリバースメンターは、彼女自身の言う〈汚い波動〉に弱かった。強欲、悪意、邪念といった負の感情は、程度の差こそあれ、おそらくすべての人間が持っているものだろうから、まともに被らないようメンタルのスウェーバックよろしく適当にいなせばどうってことないじゃないかと思えたが、彼女は、それらの思念をまともに被ってしまうらしく。場外馬券売場(の近く)や、いわゆるナンパスポットなど、剥き出しの欲望が浮遊しがちな空間が苦手だった。実際に具合悪そうにしているのを、何度か見たことがある。そんなとき僕にできるのは、彼女が問題の場所から一刻も早く離れられるように、何らかの手助けをすること。せいぜいそれぐらいだった。しかしそれは、視ること、聴くこと、五感以外のチャネルを含めて感じ取ることに興味がある一方で、必要に応じていなすことをおろそかにしてきた結果でもあった。
 リバースメンターのガイドで、メディテーションやタロットリーディング、何だかよくわからないピクニック的レッスンなどを続けるうち、僕にも、彼女の言う〈汚い波動〉が視覚的に感じられるように、つまり見えるようになっていた。
 僕の場合、それは溶かした粘土をスプレーした不潔な霧みたいなものだったが、見に視えるだけに、避けるのは簡単だった。避け損なったとしても、顔や手に付いてパリパリになった汚れは、洗えば落ちる。身体の他の部分に付着した場合も、シャワーで簡単に洗い流すことができた。
 このあたり、僕と彼女とでは、感じ方が異なるだろう。いい加減に聞こえるかも知れないが、その点について話したことはない。《どう感じられるか》は人それぞれ違うので、話すだけ無駄だから。
 
 小便小僧モドキについては、勝手にどっかへ行ったりしてないか定期的に様子を確認した。立小便をしている時は、知り合いと思われたくないのでそーっと静かに帰ったが、お知恵を拝借することもあった。幼児の知恵が何の役に立つか? 確かに、外見から判断する限り、小便小僧モドキは幼児だった。だがそいつは、こことはレイヤー違いの世界に住んでいる幼児であり、この世界とはレイヤー違いの、つまり別種の知識を僅かなりとも持っている。そして、僕もまたリバースメンターのおかげで、曲がりなりにもレイヤー違いの世界に、必要に応じアクセスすることができるようになっていた。
「……どうせそんなとこだろうから、何とでも好きに答えとけよ」
 お知恵を拝借する相談事は、週末占い師としての仕事上の悩み、個々の内容は個人情報に該当するためここでは触れないが、即ち、《わたしのやり方のケルト十字》の形にスプレッドしたカード群の意味を読めない、あるいは言葉に変換できないとき、僕は度々有益なアドバイスをもらっていた。
 カードの中からひょっこり現れた小便小僧モドキのおかげかどうかはわからないが、期間限定バーの週末占い師の評判は、まずまずといったところで。中には、小上がりになった畳コーナーの席に座るなり、
「ここの占い師さん、良く当たるって友だちに聞いたから」
とニコニコ、玄米茶など飲んでいる客もあった。そんなとき僕は、いつぞやのリバースメンターの口調を少しだけ意識しつつ、当てモンじゃないんですけどね。などと答えるのだった。

 さて、間もなく師走をむかえようかという時分、僕は友人でもある期間限定バーのマスターと二人で、とある海を見下ろす山村へ〈視察〉名目の小旅行に出かけた。彼と僕には共通する将来のビジョンがあって。それは、多少大仰なスローガンふうに言うなら、
『不良爺へ! そして仙人へ!』
というもので。二人とも結構本気で目指していた。目指していた割には、それに向けて特に何もしていない。だから、とりあえずは第一歩を踏み出したという訳。
「何もしてないは言い過ぎでしょ。現にバーだってオープンしたし」
「間もなく閉店ですけどねっ」
「頑張る乞食は不良爺になれない」
「なんやそれ」
「まずはゆっくり、風呂にでも浸かるこっちゃ。風呂屋ならそれなりに交流もできるし」
「裸の付き合いで人脈づくり?」
「その言い方が既に不良爺じゃない。不良爺は『人脈』とか言わんし。でも、まあ、そんなに間違ってはないかな」
 友人は、期間限定バーをオープンする一カ月ほど前から、毎日店の近所にある銭湯に通っていたんだそうだ。
「このあたりの飲食店経営者には、早い時間にそこでひと風呂浴びてから店を開けるおやじが多いと聞いたからね」
 不良爺とか仙人とかは、そこに何でも自分の理想を放り込むことができる、言ってみればマジックワードだった。とは言え、一緒に実践しようとするなら、それなりに具体的なイメージを共有できてないことには話にならない。
「不良爺はどこで飲むか? 一等地でも場末でも構わんと思うけど、田舎じゃないのは確か」
「郷土料理と地酒は仙人のイメージだ」
「別に、不良爺だって食べたかったら郷土料理食べれば良いし、地酒が飲みたけりゃ飲めば良い。ただ、やっぱり地元じゃなくて、その場合は旅先であってほしい」
「仙人の場合は逆に地元であってほしい」
 イメージの共有、などと言っても、ぶっちゃけその程度のものだったし、その程度で充分に思えた。そんなことより、本気で目指すなら、不良爺、そして仙人になるために必要な基盤というか、少なくとも足がかりぐらいは早めに欲しかった。
「ま、そういうこと。青年は不良爺を目指し、不良爺は仙人を目指す。不良爺にはなれそうだけど、問題はそれからだ。仙人になった自分を夢想しながら飲む酒って、何か悲しくない?」
「だから、今のうちから、足がかりぐらい……」
「師走になる前に何とかしようじゃないですか。実は、ちょっと良いなと思う村があってね、民泊やってる農家もある」
ということで〈視察〉旅行と相成りました。という訳。まあ、実際のところは温泉に浸かりたかったり、そろそろ蟹が食べたくなったというような事情も、まあ多少はあったかも知れないけど。

 棚田の先に海を望む露天風呂は、それまで経験したことのない気持ち良さで。空は抜け、背後には深い森が続いている。さすがに波の音は聴こえなかったが、鳥の声がした。何という種類の鳥かはわからない。今でもそうだが、僕は、そっち方面にかなり疎かったから。ダメモトで同行者にも聞いてみたが、やはり知らないとのこと。そりゃあそうだろう。しかし、ここでなら、好きなときに《自然の力をもらって回復》できそうだし、地元の人たちとも交流できそうだったし、実際にできた。できたんだが、皮肉なことにこの《交流》が騒動を招くことになる。
 地元民の話す言葉は、イントネーションこそ微妙に癖があったが聴き取りやすく、意志疎通にも何ら支障がない。と、少なくとも《言葉》に関しては、そう思われた。
 その、海を見下ろす山村に着いたその日、早速入った露天風呂には三人の先客がいた。みんな近所の人たちだった。大きめに声を張った挨拶に続いて、僕たちは更に《交流》を試みることにした。どこから来たか、仕事は何をしているか、休みの日はどんな感じで過ごしているか……。矢継ぎ早の、少々立ち入った質問には閉口したが、我々大阪から来た二人組は、個人情報がどうのと返答を拒むようなことはせず、初対面なのに何でこんなこと喋ってるんだろう、と笑えてくるぐらい情報を開示した。そしてこちらからも、慎重に間合いを測るようにして、相手以上に不躾で立ち入った質問をした。それでも、三人とも嫌な顔一つせず、最早日本人離れしていると言って良いほど開けっ広げに答えてくれた。と、少なくともその時は、そんな気がした。
 二十分も話し込んだろうか。外気が冷たいのでのぼせることもなかったし、心地良いので、改めてドリンクなど持ち込みもう少しいようかと思っていたところへ、
「干し柿がやられた。チクショーめあんにゃろー、これから食べようと思おちょった干し柿が、干し柿が干し星欲しガキが……」
最後の方はよく聴き取れなかったが、いかにも農家の主婦といった年配の女性が、怒りに震えがなり立てながら、モンペ姿のまま露天風呂(男湯)に駆け込んで来た。三人のうちの一人と同居している家族らしい。
 この時、僕は、女性が駆け込んで来るより先に、彼女の《汚い波動》が視覚化されたと思われる不潔な霧の到来を視ていた。冷静にスウェーバックで避けたが、大阪で見るそれよりも粘性が高そうに感じられた。なるほど、いくら水や空気がきれいでも、人間の思念は変わらないという訳か。いや、地縁血縁絡みで人間関係が濃密な分、余計に厄介かも知れない。そんな訳で、僕の心境は、田園の憂鬱(読んだことないけど)だった。
 そして、〈干し柿をやられた家〉というのが、その晩の宿。このあたりの多くの家屋と変わらない平屋建ての古い木造住宅だった。玄関の引き戸を開けた途端、過剰な復讐心と思われる《汚い波動》の気配が感じられ。耳を澄ますと、感情的な呪詛の台詞。近所の男たちが集まり、干し柿荒らしの〈落とし前〉について相談中らしかった。そして今度は、更にどす黒く不潔そうな楕円形の霧が、四つか五つ、縁側から飛び出して行くのが視えた。胸騒ぎがした。

 翌朝、馬鹿でかく設定されたテレビニュースの音声で目が覚めた。露天風呂から棚田の先に見える海で、死体が上がったというのだ。やっぱり。犯人は、昨夜縁側から飛び出して行った楕円形の不潔な霧のうち、最も汚いのを放った男だ。僕は、感じたことをそのまま、今回の〈視察〉旅行の同行者に話した。
「わかるの?」
 残念ながら、そんな感じ。有難くないことだけど、いつの間にか、知らないうちに僕の《汚い波動》感度は、かなりのものになっていたらしい。仙人、無理かも。
「犯人は?」
 隣家の長男だと思う。
 果たして、昼食の最中に犯人逮捕の速報ニュースが流れた。犯人は……どよめき/悲鳴/呪詛の声。
「能力者の彼には、昨日の段階でわかっていました」
(再度どよめき)
 
「《個》なんて所詮は仮の枠組みでしかないんだから、そんな気にしなくても大丈夫だよ」
〈一言で片づけるならリバースメンター〉である彼女が、いつだったかそんなこと言ってたけど、現実に《誰が》を曖昧なまま済ませることは、難しい場合が多く。殺人事件ともなれば、さすがにそのあたりをわざと曖昧なままにしておくことは、社会的にも許されない。

 おいおい、何を言いだすかと思ったら……。その時、友人は、目で何かを強く訴えてきた。
「その能力、村の治安維持と一軒一軒のセキュリティー向上に役立てることができると思わないか?」
 僕に、と言うより、周りに聞かせるために言っているような発話だった。どうやら彼は、この機会を捉えて勝負に出たようだ。将来、不良爺を経て《仙人》として暮らせる理想の居場所を、今から確保するために。
 唐突に、カードが《わたしのやり方のケルト十字》にスプレッドされる前の、彼女のシャッフルが鮮やかに視覚化または幻視される。《全体》を構成する七十八枚のカードの一枚一枚が、自ら意志を持って一斉に喋り出す。強固だった空間の理屈が少しばかり柔らかくなって、床と天井の間にもう一つ直角が現れる。大事なこととどうでも良いことの位置が入れ替わり、優先順位やそれまでのルールが更新される。ほら、もう、ワタクシゴトさえアナタゴトだ。


「《全部》が繋がっていくイメージだったけど、やっと本当に繋がったみたいだね」

 期間限定バー閉店の日も近いことだし、その後、小便小僧モドキがどうなったか、一応書いておこう。
 僕が〈週末占い師としての仕事上の悩み〉を相談しなくなると、退屈になったのか、それとも寂しくなったのか、そいつは徐々に〈かまってちゃん波動〉を強め、遂に、カードの中から出て来た時と同じように、
「ついて来いよ」
などとぬかした。あの日の僕は無視したが、今度は、背中の羽根に見えなくもない、肩甲骨あたりの突起を少々乱暴に掴んで手前へ引き寄せた。さあ、そろそろおうちへ帰ろうか。
 僕は、ぷよっと下腹の出っ張った裸の不良幼児を、元のカードの中へ投げ込んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?