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アイオン!と叫んで風呂屋へ行こう




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もう一度探し出したぞ!

------何を?------永遠を。

(A.ランボー/堀口大學訳『地獄の一季』より)


 


 永遠を? 探し出した? で、何がそんなに嬉しいのか。そんなふうにおっしゃる《永遠癖》とはエンもユカリもない人たちにとって、この駄文は駄文以下のものと思う。どうもお退屈さまでした。

 一方、この平べったい世界以外に何ら知覚の対象を持ち得ない<水面>たる我々が、たまさか何かの拍子に自らを通過していく<円錐>の影を垣間見てしまう。そんな瞬間を愛して止まない皆さん、願わくは病まないでいただきたいと思う。杞憂だろうか? そうであれば嬉しい限り。なぜなら、我々が《永遠》に出会う真に奇跡的な刹那こそは、この上なく素晴らしい喜びに満ちていると同時に(※削除)どこかしら<魔の瞬間>としての性格を帯びているから。確かにあの感じは、一種の最果てと言える。

「”木を見て森を見ず”と言うが、俺は木だけ見て生きていこうと思う」

 けだし名言である。以下は森の遥か彼方での話。(註1)




1. イメージできない永劫


 ある日、《宇宙儀》を見せてもらえるというので期待してでかけたが何のことはない、ただの一組のカードだった。いったいどういうことだと相手を問い詰めると、その子は口と胸と態度を少し尖らせ、だからこれがその《宇宙儀》だと言って譲らない。

「何よ。ちゃんと見もしないで」

 気がついてみると、あろうことかチンタオビールを飲みながら逆に非難されている自分がいた。これはまずい。慌てて再び、《宇宙儀》に注意を向ける。眼鏡を掛けた途端、劇中の登場人物がスクリーンから飛び出し、こちらへ向かって駆けて来る。きっとそんな仕掛けがあるに違いないと調べてみたが、天井と柱の間にもう一つ余分に直角を見つけようとする試みにも似て徒労だった。


『世界はもろもろの事実によって規定されている。さらにそれらが事実のすべてであることによって規定されている(註1)』

 ヴィトゲンシュタインのこの一節は、私が知る限りにおいて、そもそもタロットリーディングというものがどうして可能かについての、最も単純明快な説明となっている。この世界の、どの特定の状況も、森羅万象との関わりの中で形成されたものであり、また、通常78枚のカード群から成る一組のタロットデッキが、森羅万象を象徴し得る完全な《宇宙儀》であるなら、それ以外のいかなる説明も余計だろう。ただし、この《宇宙儀》には多分にいい加減なところがあるようだ。

 一般に一組78枚のタロット(またはタロー)デッキは、プレイングカード(いわゆるトランプ)の原型にあたる小アルカナ56枚と、大アルカナまたはアテュと呼ばれる22枚の(コートカード以外の)絵札群から成る。タロットデッキには様々なバリエーションがあるが、カードごとに付された名称とそこに描かれてるモチーフは、大雑把に言ってだいたい似たようなもの。例えば、大アルカナの20番は<審判The Judgement>で大天使ミカエルが描かれているが(註2)、これは言うまでもなく最後の審判を題材にした絵柄である。

 ところが、私が求めたトートタロットではこれが<永劫The Aeon>であり、ブリッジをする人(※してません)、指を銜えた裸の子どもおよびハヤブサの頭を持つアヤカシが三重に描かれており(註3)。これはまたどうしたことか。A社製の地球儀において赤道と呼ばれているものが、B社製品では黄道だったりするなら、私たちは地球儀そのものに対する信用を下方修正せざるを得ないだろう。このように私たちは、まったくつまらない、しかし生きていく上で欠かせない頭の堅さを有している。で、タロットカードだが、結局のところその強引さ、アバウトさゆえに比類なき力を秘めているのかも知れない。

 <無限>を思い描こうとする時、必然的にその<外側>をも想起してしまう。同様に、<永劫>を思う時、<その後>の時間までが気になってしまう。まったく、私たちには<外側>のない空間も、<その後>のない時間も、具体的にはさっぱりイメージすることができないのだ。所詮人間は、物事の<はじまり>にも<おわり>にも決して関与することなく、ひたすら<プロセスを生きる>ことしか許されない生物なんだろうか?

 タロットが《宇宙儀》たり得るのは、実物の地球をそのまま物理的に縮小したフィギュアが<地球儀>なのと同様の意味においてではない。タロットは、三次元世界のみならず時間に関連した概念さえ、強引に二次元平面上に可視化してしまうことで、私たちに、自らイメージし得ない対象にアプローチする術を提供してくれるのだから。

 ところで、Aeonは、元来<ある期間><時代>を意味するをギリシア語(※リンク削除)だが、プラトンの用法では<永遠>の意味をも含む。さらには<永遠界>のような世界・圏域の意味、<超霊的存在=霊的原理>といった神格・霊格的な意味や英会話スクールの名称としても使われるなど、時間とともに活躍の場を拡げ、いつの間にかすっかりつかみどころのない言葉へと変貌を遂げていたようだ。そして今、私がうんぬんしようとしている<アイオンaeon>は、れっきとした英語であり、英語母語話者の発音は何と<イーオン>または<エーオン>。レゲエの歌詞に頻繁に登場する<ザイオン>との類似性など、かけらもない。そんな訳で私は、いきなり叫びそびれてしまった。




2.曖昧な二千年紀


 単純な話、人間としての限界を甘んじて受け入れつつ能う限り多くを見、聞き、知るには長生きをするのがいちばんに思える。『百年の孤独』のウルスラしかり、物語の語り部に老婆が似合うのは、ひとえにこの事情による。しかしながら、そのウルスラが見た物語にしたところで、たかだか百年かそこらの話に過ぎない!

 ゆえに、人間は幾多の観念的な時間の尺度を採用してきた。肉体を通じて情交を結ぶことが叶わない相手を<プラトニック>な恋愛対象とすることで<永劫>に迫ろうという試みである。《アイオン》もまたその一つ、あるいはその類として使われ得る。そういった時代としての諸アイオン、すなわち現在割合ポピュラーなものと思われる魔術史観(註1)を、ざっと一望してみよう。

 大まかな区切りとして、《イシスのアイオン》→《オシリスのアイオン》→《ホルスのアイオン》という流れがある。イシス、オシリス、ホルスはいずれも古代エジプトの神格で、各時代の性格を表すものとして象徴的に用いられている。例えば、<イシスのアイオン>=<イシスさんという女帝が君臨した時代>の意味ではない。

 大地母神イシスの名をもって象徴される《イシスのアイオン》とは、すなわち母性原理が支配した時代であり、プリミティブな豊穣とピュアな慈愛に満ちている反面、それゆえの残酷野蛮な行為が当たり前のように行われていた時代でもあった。ちなみにこのアイオン、汎歴で言うとB.C.2400年頃(あやふやなのが魔術的アイオンの特徴)から始まったとされる。

 続く《オシリスのアイオン》は、イシスの夫にして冥界の王であるオシリスの名をもって象徴される、厳格な父性原理が支配した時代。すなわち権力による統制が効果を上げ、かつてない秩序立った社会が出現した。都市や国家、それに近代的な意味合いにおけるお洒落の感覚が生まれたのもこの時代(どれもこれも、いかにも「ジェンダーを意識し、死の恐怖と闘いながらつくりました」という意匠をしてないだろうか?)。しかし、反面あらゆる関係は支配/被支配の形式から逃れられず、また筆者の考えでは後述の通り、人々のもとからオシリス的秩序を維持する上で好ましからざるものすなわち<魔術>と<芸術>がなし崩しに奪い去られるという悲喜劇も起こった(皮肉なことに、この事実こそが次代における<表現>なり<修行>なりのエンジンになっていく)。

 そしていよいよ、イシス&オシリスを両親とする息子ホルスの名をもって象徴される《ホルスのアイオン》だが、今がまさにその初期段階。従って、それがどんな性格を持つ時代かについては、二千年後の暇人に譲りたい。強いて重要な部分を挙げるとすれば、<すべての個人が、奴隷状態から解放される可能性を秘めている>という認識だろうか(ここにこそ、生きていくに足るかも知れない僅かな希望がある!)。

 以上が、魔術がらみの文脈で割合ポピュラーに語られる<アイオンの変遷>の概要だが、これとは別のバージョンもあって。

 異説によると、時代は既に《ホルスのアイオン》を通り越し、娘たる《マアトのアイオン》だという。《マアトのアイオン》入りを宣言したのは、フラター・エイカドことC.S.ジョーンズ。1948年のことであった。ちなみに、ジョーンズ氏の師匠アレイスター・クロウリーは《ホルスのアイオン》の始まりを1904年としているから、これは少し不都合なことになる。現実世界の44年間に、走馬灯どころの騒ぎではない速度で魔術的二千年の孤独が過ぎ去ったのか? 《ホルスのアイオン》を始めていたはずの時代は、過渡期のうちに進路を変更し《マアトのアイオン》へと着地したのだろうか? 社会における女性の地位が相対的に向上したことと、もしかして関係あるの? 関心がおありの向きは、フラター・エイカド自身の著書にあたるという手もある。ただし、魔術というある意味未だ異端の世界においても激しく異端とされる人物であること、つまり変な奴らの中の変な奴の主張であることをお忘れなく。

 異端ついでにもう一つ。ソロール・ネマの主張に代表される<二重の流れ>、すなわち現代は《ホルスのアイオン》と《マアトのアイオン》が同時に進行する時代(※リンク削除)だという解釈がある。ただし、この主張に賛同する人々は、殊に日本の場合、魔術師たちの間にあってすら好奇の目で見られがちのようだ(「魔術ギョーカイ」_何やねんそれ?_などといった奇妙で恥ずかしい言い回しを好んで使う人たちに、そういった傾向が顕著であるように思う)。外から見れば目糞鼻糞に違いないのだが。余談だが、これに関して私個人としては若干ネマさんの肩を持ちたくなってしまう事情もあって。つまり、その世界で有名になった経緯の違い。前述のフラター・エイカドが、魔術界の虎の穴とでも言うべきA∴A∴において頭角を現した(その後はともかく)筋金入りなのに対して、言わばポッと出のラッキーガールだった。しかもそれは、一部でカリスマ的人気を誇る人物とのコネクションあってのこと。大物プロデューサーの強力な後押しでいきなりヒットチャートを制覇してしまった素人シンガーよろしく、俗っぽいやっかみからくる中傷の標的にされてしまったようにも思えるのである(註2)。

 さて、上の例からも、魔術師の言う「アイオン」がいかにいい加減な概念かが分かるだろう。所詮は、魔術師が彼/彼女自身の魔術的宇宙を認識する際に用いる、得てしてぞんざいな方便、ぐらいに考えておくのが正解かも知れない。

 異端の説を持ち出すまでもなく、時代区分としてのアイオンに私たちがしばしば戸惑いを覚えるのは、その信じがたいあやふやさによる。××のアイオンは、いったいいつ始まっていつ終わるのか。残念ながら、客観的に確かなことは言えないらしい(註3)。《アイオン》は、もとよりオフィシャルに認定されたものではなく、いつの間にか広く流通するようになったデファクトスタンダードですらない。このへん、<ミレニアム>とは明らかに勝手が違う。(※削除)

 もう一つ、《アイオン》の(とりあえずの)区切りがたまたま二千年であることが、さらに話をややこしくしているという事情も馬鹿にならない。占星学上の時代区分との混同である。

 「××座の時代」という言い方を、聞いたことはおありだろうか? 英語で言えば××エイジ Age、例えば、いわゆるニューエイジ(註4)のキータームとして知られるアクエリアン・エイジ(水瓶座の時代)などの呼称だが、何と、こちらの方もだいたい二千年スパンで移り変わる。これは、地球の歳差運動と呼ばれる地軸のブレによって春秋分点の移動にかかる時間であり、星占いの信憑性についての議論とはまったく関係がない。

 春秋分点とは、地球上に想定される赤道をそのまま天空にまで延長した<天の赤道>と、太陽の通り道である<天の黄道>の交差点のこと。現在<双魚宮>のエリアに位置する春分点は、二千年前は<白羊宮>にあった。そして、二千年後には<宝瓶宮>すなわち水瓶座へ移行する計算になるという。

 ごっちゃにするのは、いささか失礼というものだろう。あちらは、太陽、地球をはじめ星々の位置関係を基準とした厳正な二千年紀。対する《アイオン》は、あくまで<曖昧な二千年紀>なのだから。




3.流れ出す<世界>の素


 点から線へ、線から面へ、面から立体へ、立体から我々の感覚では直に捉えられない世界へ。このように、世界は展開していく。あるいは、そんな手順で理解し得る。ところで、そもそも<最初の点>はどこから発生したのだろう? ここで突然アイオーン(註1)の表記を使用しつつ、調子に乗ってイデア的に空間の限界を超えてみたい。せっかく時間に関してアバウトになったんだから、ついでに真っ当な距離の概念も一時ポイ!

 19世紀に世界で初めて近代的な魔術修行のシステム化を成し遂げたとされるG∴D∴(黄金の夜明け団)では、入団者(ニオファイト)に課される最初の実技訓練として<点の瞑想>が用意されていた(註2)。この<点>がすなわち生命の木(註3)で言うところの<ケテル>。生命の木は、ユダヤ神秘主義の伝統から生まれた哲学体系<カバラ>で用いられる、全宇宙森羅万象=アイオーンの展開図のごときもので、<ケテル>はその頂点に位置する最初の流出痕にあたる。

 エジプト神だらけの魔術世界とユダヤ神秘主義に何の関係があるのか? あまり気が進まないが、行きがかり上少しは触れておくべき問題かも知れない。流派の違いなどもあり一概には言えないものの、西洋魔術の思想的バックボーンをカバラに求める説明は多い。が、カバラを学ぶ魔術師=ユダヤ教徒という訳では決してなく、クリスチャンもいればムスリム、仏教徒、ヒンドゥー教徒、ブードゥー教徒、特定の信仰を持たない者と実にさまざま。魔術自体が独自の信仰形態だとする考え方もある。さらに、カバラそのものもユダヤ教徒のいわゆるジュイッシュカバラのほか、クリスチャンカバラ、チキンカバラなどさまざまであり、また、G∴D∴の魔術システムがカバラの生命の木に照応するかたちで組み立てられていることは事実である。話は再び曖昧模糊としてきたが、こんなものでは済まない。何せアイオーンにまで流れていかなければならないのだから。達人(笑)の権威にすがりつつ進めよう。G∴D∴系魔術師の一人イスラエル・リガルディーは言う。

『なんといっても神秘的手法であるから、カバラは世界中の古代神秘体系と無数の共通点を有している(註4)』

 さて、最初の点<ケテル>は、生命の木を右下に(裏から見れば左下に)流れ、<コクマー=叡智>という2番目の原理を生む。コクマーは左に流れ、ちょうどケテルの反対側に3番目の<ビナー=理解>を生む。ビナーは右下に流れ<ケセド=慈悲>を……と続き、最後に<マルクト>を生む。次々に生まれるこれらの原理(図上には点ではなく円で示される)はセフィロト(単数形はセフィラ―)と呼ばれ、ビナー以下の左列、ケテル以下の中央列、コクマー以下の右列という3つの柱(として見ることができる)を形成することになる。斜面上美しいシンメトリーにレイアウトされた10の水盤のようなもの、として捉えればイメージしやすいかも知れない。こうして世界の素となる原初の点は、流れに流れたその果て、真ん中のどん詰まりにぶら下がるセフィラ―<マルクト>として結実する訳だが、これこそ私たち人間の棲む物質世界(の原理)なのであり、<マルクト>の名称は王国を意味する。とんでもない皮肉に思われるやも知れないが、流れの途中で汚れていくイメージは不要(註5)。また、人間は物質世界を基盤にこそしているが、決して物質世界のみに棲んでいる訳ではないことを付け加えておきたい。

 このようにして宇宙森羅万象が展開していく流出論は、何もカバラの専売特許ではなく、一般的にはむしろグノーシス思想の特徴として知られている(註6)。もちろん、グノーシス主義とカバラでは各セフィラーの名称が異なる、というよりグノーシス系ではそもそもセフィラーもしくはセフィロトとは呼ばない。では何と呼ぶか? アイオーンと呼ぶ! 各アイオーンにはそれぞれ固有の名称があり、カバラの生命の木とは数も違うが、部分としての各アイオーンが全体としてのアイオーンを構成するのである(註7)。



4.SAINT?


 道は遠いが確実に続いている、己の信じる<アイオン>の流出過程を逆向きに辿っていきさえすれば、そのうち、まあ、何とかなるだろう。……果たして、このテの脳天気ぶりは放っておいても大丈夫なんだろうか?

 聖なるバックスクロールの過程では、しばしばそれまで無関係だった事象同士が、突然いきいきと呼応しはじめる。フリオ・コルタサルは『キグラデス島の偶像(註1)』において、男女間のどろどろした愛憎劇と純粋な力の発動が直結してしまうケースを取り上げ、悪夢のような結末を描き出している。古代の彫像が放つプリミティブな魔力に導かれて殺人まで犯してしまう男の話は、少々極端なフィクションだが、理由のよく分からない一時的な高揚感がどれほど危なっかしく頼りないものかは、いわゆるランナーズハイや徹夜の経験を通じて身をもってご存知の方も少なくないだろう。たいていの場合それらは、良くも悪くも劇的な結末を迎える前に健やかに萎んでしまうようだ。しかも、いったんそうなってしまえば最早、高揚感を生む条件についての知識(註2)も何ら役に立たず、観念して萎むに任せるしかない。見よ、裸の幼児たる自分の中に満ち満ちていたはずの無限の可能性も、今や単なる無力と未熟にすり替わってしまった!

 太平洋戦争勃発へ向かって世の中がキナ臭さを増しつつある頃、日本的芸術家の一つの傾向を代表する<不良文士>たちも、流石に食い詰めていた。中でも、《永遠癖》丸出しの役立たず文学に対する風当たりは、殊にキツイものがあったに違いない。とは言え、元来生産的労働に従事することを潔しとしない彼らのこと、原稿はさっぱり売れないけど、定職に就く訳でもなく(雇ってもらえなかったというのが正解か)、そのくせ酒だけは一人前以上に飲むといったライフスタイルの方は、なかなか改まらない。

 昭和21年に書かれた稲垣足穂の半自伝的中篇『弥勒(註3)』には、このあたりの時代の空気感と不良文士的永遠癖の在り方が、赤裸々に映し出されている。飲み代が底をつけば着るものを質に入れる。食べるものがなくなれば、藁半紙を炙り醤油をつけてパリパリやる。「あれはなかなかいけるね」などといった台詞もあり(※別の小篇中のエピソードだが、たぶん同著者の実体験に基づく記述であると思われる)、情けないことこの上ない。

 しかし、そんな中で彼はいきなり到達する。

『----婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと。(註4)』

 私は、ここに一つの文学的極北=SAINTを見るが、視点を変えれば後年中高生の間に蔓延することになる戦士症候群の先駆けのように見えなくもない。着るものはすべて酒に代えてしまい最早身辺無一物、裸体にカーテンを巻き付けただけの状態で、彼が到達したのは、どんな世界だったのか? たぶんそれは、最早誰にも検証しようのない世界だ。

 それにしても、大変な時代によくもまあ、これほどまでにお気楽な人間がいたものだと呆れかえることしきり。はっきり言って羨ましい。着るものがなくても、食べるものがなくても、酒を飲み、何の役にも立たない重大事に思いを巡らせていられたのだから。そこに芸術家の受難を見るのは違う気がする。

 ところで、歴史的に見れば、専業芸術家という職業はごく最近になって生まれたものであり、ルネサンスの巨匠ミケランジェロですら、伝記をひもとけば、存命中は芸術家と言うよりカリスマ職人のごとき存在だったらしいことが分かる(註5)。もとより政治的に重大な役割を担っている神官の類は別として、直接には何ら社会に貢献しない職業が曲がりなりにも成り立つようになったことは、近代社会の成熟を表す事件だったのだろうか。私は、そこに<永遠癖の政治的コントロール>という意図を見る。

 匠の誉れ高い職人たちは誰もかれも仕事を放り出し、空を見上げじっと空想に耽っている。自慢の軍隊は燃えるような夕焼けに圧倒され、しおしおと戦意喪失してしまう。……突然そんな国の王位に就かされたとしたら、あなたは、まず何をするだろうか。そんな、差し当たってどうでも良いことは専門家どもに任せておけ! なんてのは無意味。

 彼らは、あなたの《永遠癖》を肩代わりしてくれるだろうか。




5.戴冠せる息子を探して


 ある晩、友人とバーで飲んでいる時、ふいに野暮用を思い出した。用事のある場所へは、店からものの5分とかからないはずだ。ただ、困ったことに目的地までの道順が分からない。はて、どうしたものかと思案に暮れていると、紙とペンを貸してみろという友人の声。

 やれやれ助かったねと思いながら店を出て、丸めた紙を広げてみると、見事な達筆で

『信じる道を行け』


 『----真の解、正しい解は、とても見つかりそうにない。私たちは問題を立てても解けない。私たちは、解けない問題を立てることはできるが、解くことはできないのである。この場合、どう進むか。驚くべきことに、思い迷って足が止まるどころか、何の気なしに事態は進行する。解き難い問題、解けない問題に対して、あたかも解を出したかのように、ES細胞をめぐって何らかの実践が組織され始めるのである(註1)。』

 例えば、今テキトーに引用した文中の<ES細胞>を<魔術>に置き換えたものが、そのまま<実践>についての自分の考え方なのであり(※ips細胞もスタップ細胞も知られていない時代の空気感として、あえて削除せず)。

 確かに、細胞の声に耳を傾け、内なる思考または別次元の思考を開始せんとする行為は(※削除)!

 さて、《アイオン》が宇宙そのものを指すなら、同じように<外>にも目を向けなければ片手落ちというものだろう(※先行する行を削除した為文意がとれないがママ)。外に目を向けた場合、ES細胞に匹敵する輪郭をもってイメージできるものとして、私は<地域>を持ってこようと思う。それは、コントロール不可能な、むしろコントロールしようなどという思い上がりを微塵に打ち砕き、それ自身の力に対する憧れと恐怖を同時に抱かざるを得ないような、未知なる生命力の源泉としての地域、単なる辺境ではなく、聖なる蛮族の地=Heathen Earth(註2)としての地域でなければならない。例えば、西洋魔術を育ててきた西洋人にとっての東方、ローマ人にとってのシリアのように。

 バール信仰を一時的に復活させたローマ帝国の美少年皇帝、太陽王ヘリオガバルスは、まさにそんな地域の生まれだった。彼は、当時『おそらく何かしら神秘なものを持ってはいるが、もはやそれがどこに在るのかわからない(註3)』状態だった神官の家系から出た人物である。つまり、Heathen Earthに生まれ、自らの内なる細胞の声に耳を傾けたという意味で二重に重要。ヘリオガバルス(またはアルトーのヘリオガバルス)が指し示すふたつのベクトルの先に続いているであろう心ある道の存在を立証すること。それはきっと、《アイオン》のように途方もなく《魔法》のように素敵に違いない。

 以上が、《アイオン》への引っかかりに始まり、現在私がうっすらと見ているアプローチ(註4)の兆しのごときものである。


 果たして自分は、迷わず<信じる道>を進み、すなわち通行人に道を尋ね、目印のパチンコ屋だのうどん屋だのを注意深くチェックしながら、銭湯に忘れて帰ったライターを無事取り戻したのである。




1000.余談註


(註1)

 遥か彼方での話とは、1.人間として予め生まれながらに保証された絶対的限界≒宿命およびヘナチョコな《永遠癖》を前提としながらも、2.時間の呪縛を解き、3.空間の制約を無効化し、4.迷信を無視し、5.戴冠し征服せんとする試みが、今この瞬間にも(※削除)為されているに違いない! という認識である。

1.イメージできない永劫

(註1)

 L.ヴィトゲンシュタイン,坂井・藤本訳『論理哲学論考』法政大学出版局,1968  p61 : タロットリーディングの指南書ではない。筆者の知る限りにおいて、常に「全部」こそが問題だということを最も簡潔に言い表した一文だが、「私」との関わりにおいて捉えるならば、「私を私たらしめているのは私ではなく不可知なる外部の他者である」という、同一性論→他者論の流れに沿って丁寧に論考を進めていくのが正当な手順なのかも知れない。ここであえてヴィトゲンシュタインなんぞを持ち出したのは単に(※削除)。

(註2)

 羽根を広げた天使がラッパを吹き、死者たちは蘇る。こんなところでも、キリスト教的世界観は支配的であるようだ。

(註3)

 筆者所蔵のカードはこちら(※リンク削除)ブリッジをする人(※してません)=天空の女神ヌイト、指を銜えた裸の子ども=ホオル・パアル・クラアト(ハルポクラテス)、ハヤブサの頭を持つアヤカシ=戴冠せる息子ホルスで、何れも古代エジプトの神格。ホオル・パアル・クラアトは、場合により「ホルスの双子の兄弟」または「幼児たるホルス」とされるようだが、ここでは後者、すなわち「ハヤブサの頭を持つアヤカシ」と同一人(神)物に解したいと思う。さらに興味のある向きは、A.クロウリー, 榊原訳『トートの書』国書刊行会, 1991 をあたられたい。

2.曖昧な二千年紀

(註1)

 単に長いスパンで考えましょうということであれば、例えば地質年代などもう少し汎用性の高い物差しを選べば良いはずだが、困ったことに、人間が変性意識の状態にある時、彼が観じる時間の感覚は通常と異なる。そして、その状態にふさわしい(≒説明するのに都合の良い)時間指標は、少なくとも一般的には使われていない。私の場合、まずはそのような珍奇な物差しとしてのアイオンに興味をHad!(持った!)。(※削除)

 ところで、本文中の魔術的歴史観に関する記述は、Duquette, L.M._The Magick 0f Thelema_Samuel Weiser, 1993 ChapterTwoの勝手読みである。

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