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「価値ある人間にならねば」症候群の危うさ

「あなたの価値は?」という問いが苦手です。(※正直嫌いです)
だから、問われて瞬時に答えられる人は素晴らしいなと思います。きっと答えられるだけの準備と努力をされたのでしょう。でも一方で、その答えを聞いた瞬間にあるワードが湧いてきます。”それって本当ですか?”
だって、価値は自分が決めるものじゃないと思っているから。じゃあ誰が決めるのか? そこに『症候群』から脱するヒントがありそうです。

「価値がある人」 と 「価値がない人」 の違い

価値は、「ある」「ない」で表現されがちです。
でも、価値そのものには”感じるだけ”という性質があります。なので、極論を言ってしまえば、「感じた」か「感じなかった」かの二択が存在するだけ。この捉え方の違いに翻弄されているだけなんて、多くの人が気付いていない気がします。
本来の価値とは、人の存在そのものに紐づくのではなく、ある側面に紐づいています。これは、モノでも同じ事。だから、厳密には「価値がある人」も「価値がない人」もこの世には存在しないんです。
「あなたの◯◯◯な部分に価値を感じる」、ただそれだけ。

「価値=自分の存在」という危うさ

「価値=自分の存在」は、誰もがやりがちな罠です。
でも、切り離した方が健全に生きられます。なぜなら、”価値”そのものには変動する性質があるから。感じるか感じないかは、人それぞれです。同じ人であっても、環境や状況によって常に変化します。価値が一瞬で変化する状況を例に出すとわかりやすいでしょう。

ステーキが美味しいと噂の専門店に行ったのに、いざメニューを見ると『限定ハンバーグ』が美味しそうに見えてしまいます。ステーキを目的にわざわざ専門店に来たはずなのに、結局はハンバーグを食べてしまう。
そう、”専門店”のステーキより、”限定”のハンバーグが価値を持った瞬間です。

価値とはなんと儚いもの・・・。この様に、価値は簡単に変化してしまいます。だから、誰も固定化することは出来ないのです。
一方で存在はどうでしょう? 自分という存在は、生きている限りあり続ける固定化されたものです。だから、流動性のある価値と固定化された存在をイコールにしてはいけません。ここに「価値=自分の存在」の危うさがあります。
「価値ある人間」を目指す事は、自分で自分の存在を揺らす行為とも言えます。

相手に選択の自由を委ねる

もう1つ、価値には相手が勝手に感じるものという性質があります。
なので、「私の価値はこれです」と他人に感じ方を強制出来るものではありません。同じ様に、「あなたの価値は?」と質問する意図にも、感じることを放棄したような違和感を覚えます。
そして、価値には感じる自由もあれば、感じない自由もあります。相手に自由を手渡すとはどういうことでしょう? 想定外の価値が見出されるということでもあります。ここが、固定化されない価値の面白さです。
こうやって存在と上手く切り離した上で、感じるか感じないかもお任せします!と許容を持てれば、予想もしない価値が見出されたり、反対に相手が感じる価値のない側面にも、大きな打撃(影響)を受けずに済みます。私の存在に価値を感じないわけではないから。これって《最強マインド》です。

価値がある人間より、価値を感じる人間がいい

自分の知らない魅力を見出してくれる人って、最高じゃないですか?
「価値ある人間」を目指すことは、ある種自分の市場価値を高めようという意図がある様に思います。でも、これからはスキルより人脈がものをいう時代です。そうなった時、いかに人と繋がりやすい特性を持てるかが重要なポイントです。
であれば、「価値ある人間にならねば」症候群で自分の存在を揺らすより、存在を揺らさず安定した状態で価値を感じてもらう仲間を増やした方が、遥かに生きやすそうじゃないですか? そのためには、まずは自分から。人の中により多くの価値を感じられる(見つけられる)様な、関わると喜ばれる人間を目指したらいいのです。きっと想像以上に辛さや苦しさから解放されると思いますよ。

ではでは、次で。


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