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カール大帝賞 ー この血塗られた名を冠する賞は元*NSDAPと*SAメンバーのエリートたちによって設立された

2023年5月14日、第64回「国際カール大帝賞(シャルルマーニュ賞)」
が「ヨーロッパとヨーロッパの価値観の防衛」に功績のあった、ウクライナの
ヴォロディーミル・ゼレンスキー大統領とウクライナの人々に授与された。
この賞の政治的、歴史的背景を紹介する。


*NSDAP 国民社会主義ドイツ労働者党 通称ナチ党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)
*SA突撃隊(Sturmabteilung) ナチス党の準軍事組織。制服の色から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた。


ザクセンの虐殺者「カール大帝」の名を冠す

"異教徒のままでいたい者は死ね"- この賞の名を冠したカール大帝(シャルルマーニュ)が、40年にわたってヨーロッパで広範囲に繰り広げた戦争のモットーである。当時のザクセン帝国をキリスト教化した西暦772年から804年にかけてのいわゆる「ザクセン戦争」は、何千何万という男女、子供の命を奪った血生臭いものであった。中でも、782年に行われた「ベルデンの血の法廷」は、当時としては異例の残酷なものであったと『フランク王国年代記』(Annales regni Francorum)に記されている。8世紀から9世紀にかけてのフランク王国の出来事を記したこの記録によれば、カールの直接の命令により、丸腰のザクセン人がたった一日で4,500人も斬首されたとされている。現在の歴史家の大半は、この虐殺が実際にカール大帝によるものであったと認めている。

ヒトラーの歴史的モデル、SS師団の名称としてのカール大帝

カール大帝の歴史的役割と、彼が力ずくで作り上げたヨーロッパのかなりの部分の「帝国への統一」は、ナチス政権によりプロパガンダのために利用された。例えば、アドルフ・ヒトラーは、カール大帝がドイツの諸部族を統一したことから、「世界史上の偉大な人物の一人である」と常々賞賛している。しかしながら当時のナチス幹部全員がこの評価を共有していたわけではなかったことは、1942 年 3 月 31 日、このナチス独裁者が NSDAP の主任思想家アルフレッド・ローゼンベルクに「カール大帝のような英雄を『ザクセンの虐殺者』と呼ぶことを禁ず」と宣言させねばならなかったことからもよくわかる。ケルン・アーヘン大管区長ヨゼフ・グローヘは、1942年4月、カール大帝の1200歳の誕生日を大規模に祝う式典で、自分が造営したアーヘンの皇宮が「ドイツ民族形成の出発点」であったと宣言した。1945年4月末のベルリンの戦いで、首相官邸とSS本部の最後の砦となった狂信的集団*SS第33師団は、この残虐な皇帝の名を冠している。

*第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(カール大帝)」(独:33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne"(französische Nr. 1) / 仏33e division SS de grenadiers volontaires Charlemagne)は、第二次世界大戦期のナチス・ドイツ武装親衛隊フランス人義勇兵

もちろん、ヒトラーをはじめとするナチスの高官たちが、中世初期の歴史上の人物に極めて肯定的な言及をしたからといって、それだけで彼等を糾弾するのは愚かなことである。しかし、大帝賞の創設者たち(その中にはNSDAPのメンバーも含まれていた)は、第二次世界大戦の終結からわずか4年後に、「西ヨーロッパ理解、人道、世界平和への貢献」を目的とした賞を設けることを決定し、よりによって、その男「カール」をその名に戴く事にしたということに注目せねばなるまい。この人物は、46年間の在位中(768年から814年)、ザクセン、スペイン、イタリア、アヴァール人などに対して、ヨーロッパでほとんど休むことなく(攻撃的)戦争を指揮し続けたのであった。
彼はまさに、ナチス政権によってプロパガンダに利用されるのにうってつけの経歴を持っていたのである!

NSDAP、SA、NS-Dozentenbund:カール大帝賞の「輝かしい」創設者たち

カール大帝賞は、アーヘンの紡績企業家クルト・ファイファーによって創設された。「アーヘン国際カール大帝賞」の公式サイトには、このように書かれている:

"長年にわたる知的操作と洗脳の末、織物商クルト・ファイファー博士を中心とするアーヘン市民の小さな輪が、読書サークル「コロナ・レジェンティウム・アクエンシス」を設立したことが出発点であった"

しかし、そこに一言も記されていないのは、クルト・ファイファー博士が、1933年にナチスが政権を取った後、商業的な日和見主義からとはいえ、直接NSDAPに参加したことである。1944年末のアーヘン解放後にファイファーを尋問した米国の情報将校ソール・クッシエル・パドバーによると、彼は他にも5つのナチス組織のメンバーであったと言われている。

カール大帝賞と賞理事会のもう一人の創設メンバーは、アーヘンの有名な製造業者の家系に生まれた哲学教授のペーター・メニッケンである。彼は1933年9月1日に国家社会主義教師協会に、1933年11月1日にSAに、少し遅れてNSDAPに参加した。1939年以降、メンニッケンは教授職に加え、民族主義ドイツ教師協会の報道局の運営を引き継いだ。彼はまた、NSの秘密組織「Mittelstelle für Heimatschutz」で働き、その代表として、西側の占領された近隣諸国の大学教育の再編成を組織することになった。

また、賞の創設メンバーには、当時アーヘンの町長であったアルベルト・セルヴェがいた。彼は、帝国親衛隊(SD)の保安部によってNSDAPのメンバーとしてリストアップされているが、「現在もカトリック教徒である」という注釈が付されている。セルヴァイの実の息子は、逆に父親が「SSのサポートメンバー」であったと話している。残りの12人の創立メンバーは、主に大物実業家と新しく設立された*CDUの幹部であった。

*CDU ドイツキリスト教民主同盟は1945年に結成されたドイツの中道右派政党。キリスト教民主主義、自由主義、社会保守主義を綱領とする包括政党
現連立政権以前の政権政党

カール大帝賞の政治的・思想的方向性

カール大帝賞は、当初から冷戦下のソビエトに対するプロパガンダとして位置づけられていた。この賞の創設者である元NSDAP党員のファイファーは、この方向性を確信していた。1949年12月19日、大賞の設立をアーヘンの人々に宣言する中彼はこう述べている:

「東洋の力の増大は巨大化し、その拡大がどこで止まるかわからない。西洋列強の立場は極めて弱い。したがって、国民は運命の闘いにおける自らの責任を認識しなければならない。それは、西洋文化を救うということである。国境の街アーヘンは、そのために特別な役割を担っている。アーヘンはかつて、ピレネー山脈からスラブ語圏の国境に至る西ヨーロッパ地域全体の知的・政治的中心地であった。カール大帝賞は、『西洋文化を救う』ために、東洋の巨大な悪の権化と戦う『運命の闘い』の道具である。」

WDR(西ドイツ放送)によれば、「アーヘンのいわゆる国際カール大帝賞の誕生を記念して」行われたこの演説は、それがZeitgeist(時代精神)であろうとなかろうと、völkisch(ナチズム的)な思想から来る言葉が連ねられているという。そして「東洋」に対する運命の闘争という思想は、賞理事会のガイドラインにもよく現れている。

過去の受賞者:戦犯と冷戦の戦士たち

カール大帝賞を受賞したのは、東側との体制的な対立を公然と支持したCDUの指導者たちだったが、緊張緩和を目指す新しい東方政策を主張した社民党の首相たちは、意図的に見送られた。

「*ヴィリー・ブラント-この名前は議論にならなかった!」。

SPIEGEL誌は、1987年、ヴァルター・ハルシュタイン(彼の名を冠した「ハルシュタイン・ドクトリン」の創設者)、コンラート・アデナウアー、カール・カルステンス、ヘンリー・キッシンジャーにはカール大帝賞が授与されたが、新しいオストポリティック(東方政策)の創設者としてのブラントにはなぜ与えられなかったのかという質問に対する返答が、理事会のメンバーのこの言葉であった。ヘルムート・シュミットも、この賞のノミネートから意図的に外された。

また、1987年の受賞者は、ソ連のグラスノスチとペレストロイカが始まり、緊張緩和政策が強まっていた時期であり、理事会が誰を、どんな正当な理由で選んだかも重要である:

「ヘンリー・キッシンジャーの名前は、デタント、平和、軍縮、パートナーシップという政策の象徴である。したがって、アーヘンの授与協会の理事会は、キッシンジャー教授に1987年度のカール大帝賞を授与することを決定しました。」

だがよりによって、この人を「デタントと平和の象徴」と呼ぶとは!
1957年の時点で、米国統合参謀本部兵器開発室の顧問として、ヨーロッパに限定した核戦争を宣伝し、国家安全保障顧問として、サルバドール・アジェンデに対するチリの流血クーデターと、国際法に違反した大量爆撃と後のカンボジア侵攻を含むベトナム戦争の大規模拡大に大きな責任を負っていた人物。 また、アメリカ国務長官として、南米での「コンドル作戦」、独裁者スハルト率いるインドネシア軍による東ティモールへの侵攻とそれに続く大量処刑を許可し、組織的なテロ対策を実施したこの戦争が大好きな人物を!

当時を振り返ってみると、カール大帝賞受賞者のキッシンジャーの側近でさえ、彼が戦争犯罪人であったことを認めている。例えば、外交政策アナリストのロジャー・モリスは、米国国家安全保障会議での長年の上司について次のように語っている:
"ヘンリー・キッシンジャーを、他の社会の首脳や政治家、例えば第二次世界大戦後のドイツや日本に対して行ったのと同じ基準で判断すれば、彼はいつか必ず戦犯として裁かれるだろう。"

しかし、賞を授与された戦争犯罪人はキッシンジャーだけではない。1999年、当時のトニー・ブレア英首相は、「コソボ危機における積極的な行動で、クリントン米大統領にスロボダン・ミロシェビッチに対するNATOの明確な姿勢を納得させ、国際社会の新しいドクトリンの大枠を示した」(!)ことが評価されたという。彼は、国際法に違反した侵略戦争(NATOの専門用語では「連合軍作戦」)で、ユーゴスラビアの他の地域の民間インフラの多くを破壊した功績(!)によりカール大帝賞を受賞したのである。

ブレアへの大帝賞授与の際の賛辞にはこう書かれている:

"つまり、私たちは文明のため、私たちのヨーロッパ文明のために戦っている!長期的な政治的解決につながる唯一の手段である交渉が再び始まるまで、われわれは武力を行使する。"

ブレアに贈られたカール大帝賞のメダルに刻まれた、ブレアの功績を讃える文字も、シニシズムにおいてこれに勝るとも劣らないものだ:

「欧州の平和と発展」である。

そしてその1年後、今度はビル・クリントンが受賞した。国際法に違反したユーゴスラビア共和国への侵略戦争の主な責任を負うだけでなく、1998年のクリスマス直前に、自信の弾劾の危機から注意をそらすために、主に国内政治的理由から、国連が動けないイラクへの全面空爆を命じたあのアメリカ大統領である。“外交も警告もなく"、この軽薄なアメリカ大統領は、当時のお気に入りの敵サダム・フセインを公然と脅し、残虐行為を行った。

クリントンの刑事裁判所 苦難の最前線で、米国のビル・クリントン大統領はバグダッドの空爆を命じた。批評家は、手に負えない独裁者サダム・フセインに対する打撃は、大統領弾劾から注意を背けるためだったと主張している。独シュピーゲル1998年12月

ここで私たちがもう一度思い出さねばならないのは、カール大帝賞は、「人類と世界平和のために最も価値ある貢献をした人に贈られる賞」である、と定義されている事である。

*ヴィリー ブラント
Willy Brandt 1913-1992 は、第二次大戦後のドイツ社会民主党(SPD)の政治家で党首。ナチス時代は亡命生活を送った。戦後、西ベルリン市長に選出され、1961年の東ドイツ政府によるベルリンの壁の設置などに直面しながら、市民レベルの東ベルリンとの交流を模索した。

好ましくないファイルの公開

このような背景から、アーヘナー・ナッハリヒテン紙の報道によれば、カール大帝賞の受賞に関するアーカイブ(議事録、投票書類など)の全面公開について、理事会が「政治的な絡みに対する懸念」を理由に反対していることは驚くには当たらない:

"政治的な絡みを避けるため、過去30年間のファイルは当分の間、使用しないこととする。"

結論

「欧州統一」への貢献に対して贈られる「最も権威ある」賞が、数十年にわたって東、南、西の隣国に対して戦争を仕掛けた皇帝の名を冠し、上述の通りかつてナチス政権に積極的に加担したアーヘンの上流階級が、「西洋文化を守る運命の戦い」の道具として「東の脅威」に対抗して意図的にカール大帝賞を創設したという出来事は、欧州連合の正体について多くを物語っていると言える。このような反動的なライトモチーフは、賞が設立された初期の頃に限ったことではないことは、「アーヘン国際シャルルマーニュ賞」の公式ウェブサイトに掲載されている現行の出版物を見ても明らかであり、特に「ヨーロッパの将来の政治・経済統一のための指針としてのキリスト教的西洋の思想」を語り続けていることからも、当初からの体質が変わっていないことがよく見てとれる。

一方的な政治的志向と透明性のない受賞者の選考過程から鑑みるに、理事会は明らかに必要な批判的再評価と改革にまったく関心を示すつもりはないようである。それは、例えば過去30年間のシャルルマーニュ賞のファイルの公開を拒否していることからもわかる。アーヘン・シャルルマーニュ賞の主催者が今日まで宣言してきた「運命のためのオクシデンタルな闘い」は、おそらく自分たちの行動に対する批判的な考察を許さないのだろう。彼らは実際、今現在もウルスラ・フォン・デア・ライエンを中心とする現在のEUのエリートたちと共に、悲惨なエスカレーション政策の象徴となっているのである。

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