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死を知ることが本当の死なのかもしれない。

先日、文化誌「庭」vol.3.0「生きている人が死について考える」を購入しました。

庭vol.3、著者8名のそれぞれの視点から、でも全員生きている人としての目線で死について様々な思いを巡らせたり、考えたりしていて、とても興味深かったです。
それを読んだ上で死について思い出したこと、思ったことを書きます。



人や記憶や物、とにかくなんでもに対してなんだけれど、私は死というものを大事にする方法をほとんど知らない。

死んだことは覚えているのに、死にまつわることを、段々と忘れていった。(もしかしたらこれはとてもひどいことなのかもしれないけれど、私にはあまりにも自然だった。)

昔飼っていた金魚やカブトムシも、いつ死んだかもどこに埋めたかも全く覚えていない。葬式の仕方も、どんなだったかあまり覚えていない。改装前のスーパーの物の配置も、大好きだったはずの人の言葉も、忘れてしまった。

母方の祖母が病気で死んだ時、私は高校3年生だった。亡くなったと病院から連絡があった夜、ベッドで横渡る祖母を見た。白く、そして足をピンと伸ばし硬くなっていた。でも顔はまるで何事もなく寝ているようだった。

葬式をした後、父の車の助手席に乗っていた私の膝の上に、祖母の骨壷があった。「骨壷ってこうやって持って帰るものなのか」と思ったことをよく覚えている。

家に持ち帰った骨壷は、私が大学3年生の終わりになった今でも家に置いてある。私は早くお墓に入れてあげたいと思い続けてきたが、私の両親も、母の姉の家族も、あまり関心がなかった。私も口を出せなかった。

祖母がいないという事実が頭に残った。それ以外は変わらない生活だった。

私の中では、家族の死も、飼っていたものの死も、重さみたいなものはほとんど感じなかった。



私が知らない人は、私の遠いところでは全て死んでいるのかもしれない。
自分の周りにだけ生がある。

そんな感じがした。似たような哲学の問題があったことを思い出す。


1年ほど前、古書店に行って、気に入って買って帰った本がある。茨木のり子さんの「倚りかからず」だ。”7年ぶりの最新詩集”と帯に書いてあった。強かな言葉が生きた哲学のように私に刺さり、とても好きだと思った。

それから数週間後、駅前の書店で詩集を探していたら、「倚りかからず」があった。しかしその帯に書いてあったのは”茨木のり子最後の詩集”だった。驚いた。
彼女は亡くなっていたのである。

”古書店の本の情報は最新ではない”ということがすっかり頭から抜け落ちていたとはいえ、そうか、亡くなっていたのか。もうこの世にこの文章を書いた人は存在しないという事実を、私はうまく飲み込むことができなかった。

私の周りの人は病院に入ってから亡くなっているので、ある程度死の予測はついた。なのでこれは私にとっては本当に突然の訃報だった。

それを知るまでは、私の中で茨木のり子さんは生きていた。死んだと知らなければずっと生きていたのかもしれない。
死んだと知らされて、私の中の彼女はようやく死を迎えた。

ふと祖母を思い出す。両親は祖母の死を近所にもほとんど伝えなかったので、祖母と仲がよかった人たちの中で、祖母はまだ生きているのかもしれない、と思った。


私が死んでも、知らされなければ、私を知る人がいる限りその人の中でずっと生きられるのかもしれない。

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