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【ゆっくり学ぶシルバーバーチの霊訓】④

こんばんは。
シルバーバーチの霊訓をお読みになった方も、そうでない方も、どうぞご参加ください。生きる目的と人生に起こる様々な出来事の意味を知って、あなたがより幸福に生きられる事を目的とします。

テキストは必要ありません。
シルバーバーチの霊訓から、少しずつ引用させて頂いて皆で一緒に考えていきたいと言うのが、本文の趣旨です。

さて、今日は前置きは省いてシルバーバーチの言葉から紹介します。
早速始めましょう。

 人類は物質文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで〝物〟に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。

 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。

 たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

シルバーバーチの霊訓(一)潮文社刊
アン・ドゥーリー編
近藤千雄訳

そして、今日はもうひとつご紹介したい文章があります。精神科医である、ウィックランド博士の著書『迷える霊との対話』からの抜粋。招霊によって招かれた霊からの証言です。

実在に目覚めたスピリットからの助言

スピリットの語る『死後』の世界

 死後、順調に目覚めて向上し、人類の啓発の為に役立ちたいという願望のもとに、我々のサークル活動に協力しているスピリットが数多く出現して、生命の実相と死後の世界について語ってくれている。

 かつては、メソジスト派の牧師で、その後我々のサークルの一員として、娘さんと共に出席しておられたイェイツ氏が、死後僅か五日後に出現し、さらに数ヶ月後にもう一度出現して語ってくれた。以下は、その時の記録である。

 1920年10月27日
 スピリット=ウィリアム・イェイツ

「また参りました。もっとも、この場にはしばしば来ております。誰だかお分かりでしょうか。ドクター・イェイツです。

 今夜は、こうして皆さんと対座してお話が出来ることを、大変嬉しく思います。それに何よりも、このサークルがずっと活動を続けておられることが有り難いです。

 招霊会が開かれる時は必ず来ております。今夜も、勉強の為に、大勢のスピリットを連れて来ております。その賑やかな情況をお見せしたいくらいです。

 地上の人間にとって、生命とは何かということは大変な問題です。そのことを勉強し、物質に宿っての存在について学んでくださると有り難いのですが…。肉体を離れてこちらへ来るスピリットの多くが、無知の暗黒の中へと入ってしまうのは残念なことです。信仰心しか持たないから、そういうことになるのです。神を賛美し、歌い、そして祈ることばかりしております。近づこうにも近づけません。

 地球を取り巻くように存在する物的波動のエーテルの界層は、『地縛霊』と呼ばれるスピリットの住む暗黒の世界です。利己主義と無知が生み出す暗黒です。そこから脱け出すには霊的理解力(悟り)が芽生えて、霊的視力が使えるようにならなければならないのですが、その為にはまず、生命の実相について知り、自分の幸せだけを求める信仰を捨てなくてはなりません。

 その種のスピリットは、地上時代に人の為に汗や涙を流すことがなかった者達です。『人の為』ということがどういうことであるかを知らないまま、自分の為にだけ生きてきました。自分以外の人のことを考えるまで霊性が発達していないのです。

 その暗黒界の様相は、実際に見て頂く他はありません。私は二人の親戚の者に案内してもらったのですが、自殺者ばかりが集まっている境涯、狂信者が通う教会ばかりが立ち並ぶ境涯、スラム街、拝金主義者ばかりの街などなど、それはそれは凄絶を極めております。しかし、その事実自体も問題ですが、もっと問題なのは、そうした境涯のスピリットの出す波動が、地上の類似した人間の波動と合致して、生活を破綻に追いやっている現実です。

 このように、地球のすぐ回りに無知の世界が存在し、死後そこで目を覚ます者が多いのです。どんなに善人であっても、どんなに真面目な人生を送っていても、ただこれだけでは十分ではありません。死後の世界についての知識がないと、目覚めた後しばらくは暗闇の中にいます。その後、いつ霊的覚醒が訪れるかは、その人が地上で悟った霊性の程度(霊格)いかんによります。

 不思議なのは、地上生活において他人の為に役立つことをしたその行為によって、死後に落ち着く家と環境が築かれているということです。当然、清らかな人生を送った人には、清らかな環境が待ち受けておりますが、先ほども申したとおり、霊的摂理についての知識が欠けていると、すぐにそこへ行き着くことが出来ずに、いわば、道に迷ってしまうことがあるのです。

 面白いことに、自分のことしか考えない人生を送った人の霊界の家は、自分一人がやっと入れるような、小さな、ケチ臭い形をしております。連れ添う人も見当たらず、自分一人の侘しい環境の中に自分を見出すことになるわけです。

 そうした侘しさに耐え切れなくなって、神に救いを求めるようになった時こそ、向上のチャンスの到来です。高級霊の手配によって、まず地上時代の利己的な生き方が生み出した結果を見せつけられ、良心の呵責を覚え始めます。自分が害を及ぼした相手がまだ地上にいる場合は、その人の背後霊の一人として、その償いが済むまで援助してやらねばなりません。既に他界している場合は、そのスピリットを探し求めて、何らかの形で償いをしなくてはなりません。そうした段階を経てようやく、もう一段上の界層へと向上していくことになります。

 信仰というものは、何の役にも立ちません。大切なのは行為です。地上にいる間に霊的存在として為すべきことを実行し、そして神が創造なされたこの森羅万象の不思議さに目覚めなくてはいけません。存在の全てが神なのです。あなた方人間も、神の創造物の一つであり、花もそうであり、動物もそうです。そうした神の顕現を崇めずして何を崇めるのでしょう。我々は、神という存在のまっただ中にいるのです。

 宗教的ドグマと信仰をそのまま携えて霊界入りしたスピリットは、相も変わらず神を讃える歌を歌うばかりの生活に明け暮れており、『自分とは何なのか』『いずこより来ていずこへ行くのか』『真実の生命は一体どこにあるのか』といった疑問を抱くことがありません。霊的に居眠りの状態にあるのです。その大半が未だに地上にいるつもりで、歌い、そして祈るばかりです。かつての家族や友人が見当たらなくなったことに、何の不審も抱きません。

 そうしたことを、私はこちらへ来て二、三ヶ月して知りました。私にも住居があります。親戚も友人もいますが、地上時代とはまるで違います。私よりずっと早く他界したのに、未だに死んだことに気づかず、暗闇の中での生活を続けている者が大勢います。そういう人をなんとかして救ってあげないといけないのです

 今夜は、こうして皆さんと一緒に時を過ごすことが出来て、嬉しく思います。この仕事は、是非とも続けてください。皆さんの目には見えないかも知れませんが、毎回この部屋には、精神的に自由を奪われたスピリットや無知なスピリットが大勢連れてこられて勉強しています。

 地上人類は、これからしばらく困難な時代へと入るでしょう。これまでの罪悪と利己主義がその困難を生み出すのです。現代人はお金と我欲の為にのみ生きております。いつかはその生活概念を変えなければならなくなるでしょう。平和は、その後になります。今はまだ、お互いが闘争状態にあります。

 人間が最も控えねばならないのは、取り越し苦労です。不安を抱くと、オーラが不安の波動に包まれます。内部に神性が宿ることを自覚して、自信を持つことです。人格を備えた神ではなく、全大宇宙の根元である生命体としての神の力、創造力、愛の力が宿るということを自覚して、不安を追い払うのです。

 例えば、スピリットに憑依されるのではないかという不安が生じた場合は、『自分は自分の身体の主なのだー他の何者にも入らせないぞ』と自分に言い聞かせて、それを何度も繰り返すのです。そのうち霊的な力が湧き出て、それが身を守るようになります。それと同時に、邪心や悪感情を心に宿さないようにすることも大切です。(ウィックランド博士に向かって)先生、妻と相談の上、私の葬儀をパーティーにしてくださったことにお礼申し上げます。あれを葬儀だと思った人は、まずいないと思います。まさしくパーティーでした。私はずっとあの場にいました。皆さんに黒い喪服でなく、明るい白の衣服を着てくるようにお願いしてくださったことにも感謝いたします。

 これからの葬儀は、すべてあのようであってほしいと思います。喪の悲しみの念は、スピリットに余計な悲しみと苦しみと陰鬱さを呼び寄せます。その陰鬱さから、何年も脱け出せないでいるスピリットが大勢いるのです。

 では、この辺りで失礼します」


C・A・ウィックランド著 ハート出版刊
 『迷える霊との対話』より抜粋

いかがでしたでしょうか。
今回までこのシリーズを続けて読んで下さっている方は、私の紹介する言葉に幾許かの真実性を認めて下さっているのだと信じます。

私自身も、初めからこれらのことを鵜呑みにしたわけではありません。多くの文献を比較検討し、真実とそうでないものとを選り分けて、こうして皆さんにご紹介しています。

ですが、私はこれらの事を信じろとは言いません。確信とは、人に押し付けられたり与えられたりする性質のものではないからです。皆さんがこれらの文章を読んでどう判断されるかは、皆さんの自由意志に委ねられています。

さて、私たちはうまく物質をコントロールできているでしょうか。物とは、目的を果たすための道具であります。しかし、家が欲しい、車が欲しい、洋服が、美味しいものが、といつしか手段を目的とを取り違えてしまってはいませんでしょうか。

価値観を誤ることで、大切な人生を物質の犠牲にしてしまってはいけません。立派な家に住んだからといって、心は満たされるのでしょうか。他人より良いものを得たからと言って、心は満たされるのでしょうか。そんなもので満たされる心というものは、どれだけ貧しい心なのでしょう。

人のために尽くす事、困っている人を助ける事、それこそが本当の人生の目的です。真理を理解するにつれて、そう思わざるを得なくなるのです。

どうか、この文章を読んで下さる皆さんが本当に幸福な人生を歩まれますように。

本当に幸福な人生とは何か。
今日はもう一冊ご紹介しましょう。

くまのパディントンです。疲れた時、悲しい時にこの本を読めば、生きる力が湧いてきます。

このような波動の高い本を読むことで、時にはあなたの心に栄養を与えてあげて下さい。

図書館などでも置いてあるはずです。
宜しければ。

そうそう、最後にひとつだけ。
この文章を読んでいるのは、実はあなた一人ではありません。いいえ、noteを通して読んでいる他の肉体を持った人のことではありません。あなたを通して、一緒に勉強している見えない方もいらっしゃるという事です。私たちはこうして共に向上していくのです。

それでは、今日はこれまでとします。
皆さんの明日が、みのり多い日でありますように。

Capella✝️


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