他人の「フリッツホンカ」を観た感想から思う、自分が加害者になる恐怖がないって話
ども、今日も更新してみます。
タイトルから全然意味わからんって感じですが、とりあえずなるべく習慣づけるために思ったことを適当に文章として残しておこうかなっていう雑記です。
で、何かっていうとちょっと前に屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカを観に行ったんですが、まぁ結構面白かったんですが、ふと映画紹介サイトみたいなところで記者の人の見た感想を読んだわけですよ。そしたら、書いてあったのがこういう奴が隣に住んでいるかもしれないというリアルでジメッとした恐怖があるみたいな、だいたいそんなようなこと書いてあったんですね。
でもフリッツホンカって全然そういう映画ではないというか、いやそういう側面もあるけど本題はそこじゃないと僕は思うんですね。現に監督自身も確かなんかのインタビューでこれは人間の寂しさを描いた映画ですって言ってた気がするんですけど、つまりこの映画って被害者も加害者も誰も愛してくれなくて寂しくてそれでも愛を求めるんだけど不器用で全然うまくいかない結果が歪みすぎてグロテスクな結果を生むっていう話なんだと思うんですよ。
で、それって全然他人事の話じゃないんですよ。自分からしたら「こんなやついたら嫌だなぁ」じゃないんですよ。すごいフリッツホンカに共感できる部分がたくさんあって、何かがズレてたら自分もこうなってしまうのかもしれないっていう感覚なんですよね。実際そういう風に作ってあるんですよ。被害者の老婆もとっても汚くて誰からも求められてなくて、だからこそぶん殴られてもそこにいることを許してくれる自分を欲してくれるホンカを求めてしまうわけで、それって全然誰にだってあるというかこれからなるかもしれない未来でもあるわけじゃないですか。
だからこそ怖かったーとか気持ち悪かったーとかその程度では終われない気持ちになるんですよね。
でもそういう感覚ってフリッツホンカだけじゃなくて、殺人鬼映画全般に言えることだと思うんですね。例えば自分は13日の金曜日についてはどうしたってジェイソン側に感情移入してしまいますしね。
つまり何が言いたいかって最初の記者の人には自分が被害者になってしまう恐怖はあるんだけど、自分が加害者になるかもしれないって恐怖がないんですよね。
もしかしたら自分もこの映画の殺人鬼のように何かをキッカケに人を殺してしまうかもしれない、殺すまではいかないにしても誰かを傷つけてしまうかもしれないっていう怖さを感じてない、自分は違うって思っているのは結構危ないことだと思うわけです。
そもそも人間というのは野蛮で暴力的なんてことはあらゆる映画で何度も繰り返しテーマとして扱われているような話なんですが、大抵の人はまぁ自分はそこまでいかないって思ってるわけですよ。でもそんなことないんですよ。
何かそれが正当化されれば、そうすることが正しいって認識できれば多分そういう人たちこそ平気で人を傷つけるし、なんなら殺しだってすると思うんです。
これもよく扱われる話ですけど、戦争なんてそういう自分が加害者になると思ってない人たちが何人もの人を殺してるわけですから。実際に歴史が証明してるんですからね。現に今ネットでは人を叩いて死者も出てるわけですからそれって実は映画の殺人鬼とそんなに変わらないですよね。でも気づいてないんです自分が殺人鬼になってしまってることに、なんなら良い事をしてるとすら思ってる人もいるかもしれません。
だからこそホラー映画をしっかり見るべきなんです、暴力だらけでグロい映画を見るべきなんですよ。そういうのを見て、自分が襲われる恐怖だけじゃなくて自分が暴力をふるってしまう事に心底怯えるべきなんですよ。そこに恐怖すべきなんです。だからこそ人に対して優しくできるし、他人の気持ちを考える想像力がつくんだと思います。人に嫌いっていうのは簡単だけど、それで相手が傷つくんだって事をしっかり自覚すべきなんですよね。
ほんとね、子供の頃からしっかり見せた方がいいと思いますよ。無菌で育ちすぎるとろくな事にならないなんてのは現代の日本の状況を見たらわかりきってるわけですからね。
なんか良いこと言おうとしたけど、結論何言ってるかわからないですね。いやまぁ今日単純に人にはっきり嫌いって態度に出されてすごく落ち込んでるっていうだけの話なんですけどね。まぁそんな深夜テンションで書いた駄文でした。以上です。
なんでしょうねこれは
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