見出し画像

おとなの階段、足踏みしてる娘のはなし

 13年前に別れた妻との間に、二人の娘がいる。これは、大学入学を機に、2年前から京都で暮らし始めた、現在21歳の長女との、現在進行形のはなし。

 彼女が小2の夏休みに、離れて暮らすようになったけれど、ほぼ毎週末、一緒に遊びに出かけていた。

 公園、遊園地や映画といった定番スポットにプラス僕なりの情操教育と称して、自分が好きなライブやフェス、アートの展覧会などにもちょくちょく連れ出していた。

 娘が産まれたときに決めたこと。

 親の自分が何でもかんでも決めないこと。自分で考えて決められるひとになって欲しかったから。

 必要以上に"親ヅラ"しないこと。自分の知識や経験だけで、押し付けちゃいけない。なにせ、こっちも親になって日が浅いのだから、驕ってはいけない。これは、ある本からの受け売りだけど。

 偏っているかもしれないけど、情報は与えても、それを選ぶかどうかは、自分で考えてくれればいいと思ってた。

 彼女が小5になった頃、フィールドワークやレポートが中心の、ちょっと実験的な中高一貫校ができた。

 その方針に感化された僕は、「高校で受験するより楽だぞ〜」などと洗脳して、中学受験を促した。このときばかりは、僕のエゴが先行してたのかもしれない。

 その学校の試験や面接に対応した塾に通わせ、週末には勉強にも付き合ったりしたけれど、模試ではC判定以上の結果が出ず、途中、彼女の心が折れかかりそうになったりもしながら、結果、合格した。

 話は飛んで、長女、高2の夏。将来はインテリアに関わる仕事に就きたいから、進学は美大をめざしたい。だけど、どこもデッサンの試験があって、そこに自信のない彼女は諦めようとしていた。

 確かに僕の血筋的に絵心はない。まるでない。元妻は僕よりは手先が器用だけど、元妻の絵を見たことはない。

 そんなときに、仕事がらみで、とある漫画家さんの話を聞いた。「◯◯って、美大専門の予備校があって、僕も通っていたから自信をもっておすすめします。あと、デッサンは描けば描くほど上手くなりますよ。」とのことだった。

 長女は体験入学を経て、すぐに美大予備校の門を叩いた。若さゆえか、絵心皆無な僕から見ても、デッサンはみるみる上達して、翌年の高3の夏には、彼女が志望する京都の大学への対策も万全な美大予備校に、二週間の夏期講習にも行った。

 長女、高3の冬。国公立2校、私立2校を受験したけれど、結果は第4志望の私立のみ合格。

 断酒だ断煙などできない意志の弱い父(僕)は、中学受験のときは神社に三十日連続で参り続けたのだけど、大学受験のときは御百度参りならぬ、約3か月に及ぶ”御百日参り”を敢行したみたものの、そうそう上手くはいかなかった。

 浪人する気はないという長女は、第四志望の京都の美大に入学した。系列には建築系の大学もあり、そことのWスクールも可能で、二級建築士の資格も取れるという。彼女はそのカリキュラムも履修するとのことだった。

 2022年4月、晴れて入学!
 とはいえ、まだコロナ禍が残るころで、入学式には参加できず、遠く離れた地で、固定カメラ数台の拙い配信映像に、「美大がこんな映像流してんじゃねーよ!」と悪態を吐きながら、PCの前で娘を探した。

 その翌月、母の要望で、大阪の親戚に会いがてら、溺愛する孫(長女)にも会うべく、京都〜大阪ツアーへ一緒に向かった。

 5月が誕生日の長女に、プレゼントを携えて行こう!と思った僕は、19歳の誕生日といえばシルバーアクセサリー=ティファニーだろうと思いついた。

 僕が同じ歳の頃は、彼女の19歳の誕生日>シルバーアクセサリー>ティファニーのオープンハートが定番だったけど、そこは娘だし…と、彼女が産まれたときに友人からもらった、彼女の名前が彫られたベビーリングをピッカピカに磨いて、それにティファニーのネックレスチェーンを買って持っていった。

 長女がバイトを始めた和食屋で、母と僕と長女で食事をしたとき、プレゼントを手渡したタイミングで、彼女から話があると言われた。聞けば、彼氏ができたという。京都で暮らし始めてから二週間ほどで。

 彼氏ができた娘に対する父親の、いわゆる狼狽えるような感情は、不思議と無かった。だからか、聞いた直後に出てきた言葉は「まじか?!チューした?」だった。我ながら、かなりバカっぽい。彼女の友だちですら言わなそうなセリフだった。

 その場で、78歳の母に、52歳の僕が「あんた、娘になに聞いてんの!」とたしなめられたのは当然のことだ。

 ・

 京都はやはり文化的な街で、美術館もたくさんあるし、魅力的な展覧会がたくさんある。

 僕「◯◯の展覧会があるみたいだねー」
 長女「お!行ってみるわ」

 長女「最近、△△にハマって聴いてる」、「××のライブ(展覧会)行ってきたよー」

 こんなLINEのやりとりが楽しかった。

 1年生の冬休み。帰省したときに、週1の建築のWスクールが難しいらしいと、元妻から聞いた。その後の春休みに帰省したときには、Wスクールはすでに辞めていて、本丸の美大も単位をいくつか落としたとのことだった。

 平成元年、死にたいくらいに憧れた花の都”大東京”で暮らすことが目的で、大学はそのための手段でしかなく、案の定、東京に溺れて、一年生で7単位しか取れなかったけど、その後の追い込みで4年でなんとか卒業した僕から娘に言えることは、その情けない実体験と、「何やってもいいけど、帳尻は合わせろ。」ってことくらいだった。

 2年生になった夏休み。長女は二十歳になり、一緒に酒を飲めることを心待ちにしていた僕は、彼女を幼い頃から知ってる友人たちを誘って、はしご酒をした。

 友人たちは、みな自分の子どものことのように祝ってくれたし、お祝いの品まで準備してくれていた女性陣、それを目の当たりにした男性陣は、お小遣いをくれたりして、それはそれは楽しい一夜だった。

 それから二週間後、悲劇は訪れた。
 元妻より、学校からの通達書面の画像とともに「留年だって…」とLINE。

 帰省したときには分かっていただろうに、それをおくびにも出さずに、地元を満喫して帰って行ったことに腹が立った。

 以降、電話には出ないし、LINEしたって未読。
 元妻には、大学から、期日までに本人からの意思表示(休学 or 退学)が無いとの連絡が入り、一旦、期日の延長をお願いして、数日後、元妻から「京都行かない?」の提案。

 「そうだ 京都、行こう」みたいないいもんじゃない。9月も半ば、元妻との、それはそれは、しんどい京都トリップが急遽決定した。

 いざ、京都。
 まずは長女が暮らす学生会館に向かうも不在。管理人さんによれば、夜に帰ってきてる形跡はあるという。親ってことで、部屋の鍵を開けてもらうと、そこはまぁまぁな散乱ぶりだった。

 学生のひとり暮らしなんて、こんなもんだろうと思った僕とは対照的に、きれい好きな元妻はすでにキレていた。

 さて、どこで長女を捕獲しようか?となり、バイト先に連絡を入れた。事情を話すと、今日は出勤だという。本人には伝えずに、出勤するタイミングで突撃することに。

 バイト先の和食屋にドッキリ突撃するも、あまりにドッキリ過ぎたのか、逆に表情の変わらない長女。店長さんが気を利かせてくれて、個室を用意してくれた。我々親の言葉も虚しく、長女の黙秘が続いた。

 場所を変えて、居酒屋へ。
 場所と言葉は変わっても、伝えたいことは同じ。本質は「で、どうするんだい?」だ。

 「留学したい」なんて言葉も出てきたけど、それは明らかにその場しのぎの現実逃避だったので即却下。後期を休学して、翌年から復学ってことになった。

 以降、長女とはすっかり疎遠になった。こんな時期もあるだろう。親(子)離れの時期なんだろうと思ってた。

 今年7月はじめの朝早くに、手書きの手紙を写した画像と、「読んでみてほしいです。」って言葉とともにLINEがきた。まともな連絡が来たのは、昨年9月の京都急襲以来だ。

 そこには、とってもきれいな字で、とっても丁寧に、苦悩する彼女の言葉が並んでいた。親の手前、復学を選んだものの、どうにも腹落ちしていないようで、でも、親への申し訳ない気持ちも記されていて、学校に向かうも、教室に入れない逡巡が書かれていた。

 今の大学を辞めて、専門学校に通わせてほしいとも書かれていて、このまま世に放り出したって、パーソナリティだけで勝負させるのは酷過ぎるなと思って、協力したいと思ってるけれど、この三日、また連絡が途絶えている。

 こんな不義理は、自分も散々してきただろうから、親となったいま、自分に返ってきてるんだろうと思いつつ、はらわたは煮えくり返っている。 













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?