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117 思い出の石勝線夕張支線

先日も投稿しましたが、ローカル鉄道の経営環境は年々厳しさを増しています。今後、地域との協議の場の数は増えていき、バス転換に向けて具体的な動きがみられる線区も増えていくのだろうと思います。

2019年3月末で石勝線夕張支線が廃止されました。これは夕張支線の経営が厳しいというJR北海道の事情ももちろんそうなのですが、人口の激減に喘ぐ夕張市の新しい町づくりに際し、JRが協力することを条件として鉄道の廃止を自ら提案した経緯もあっての廃止でした。

今回は廃止前の2018年8月に訪ねていたこの路線の在りし日を振り返りたいと思います。

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石勝線夕張支線の歴史は古く、明治25年まで遡ります。石炭を運ぶための路線として北海道炭礦鉄道室蘭線の支線として追分から夕張まで鉄道が敷かれました。その後明治39年に北海道炭礦鉄道が国有化されて国鉄の一部となっています。

昭和56年10月に札幌から十勝方面への短絡路として千歳空港(現南千歳)から新得まで石勝線が開業した際に追分から新夕張までは石勝線の一部に組み入れられ、新夕張から夕張までは石勝線夕張支線と改称されました。

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旅の始まりは支線の起点となる新夕張駅。夕張支線廃止後はここが夕張市の玄関口となります。

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新夕張駅の脇に「紅葉山駅」の駅名標があります。石勝線が開業するまではこの駅は「紅葉山駅」と称していました。ここから夕張線登川支線が分岐していました。

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千歳から来たキハ40に乗車。この行き先標ももう見られないと思うと寂しい気持ちになります。

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夕張支線最初の駅は沼ノ沢。レストランオーヤマが駅に併設されていましたがこちらも鉄道廃止とともに営業を終了しました。かつてはここから炭鉱専用鉄道が分岐していました。

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続いて列車は南清水沢駅に停車します。ここは駅舎もしっかりあり委託されている方が切符の販売も行っていました。清水沢地区は夕張駅のある本町地区に次いで人口の多い地区。夕張市はコンパクトシティ化を目指しており、この地域を中心に新しい町をつくろうと計画しています。

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清水沢駅も清水沢地区にあった駅。三菱石炭鉱業大夕張鉄道線が分岐し、各炭鉱から石炭を運び出す大集積地となっていました。かつての栄光をこの広い鉄道用地の跡が物語ります。多くの貨車や人で賑わう姿が偲ばれます。

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鹿の谷駅は下車しなかったためこの写真しかありません。かつてはここも石炭を積み出す線路が分岐していたほか、炭鉱の幹部社員が住む住宅があったり、学校が近くにあったりでかなり賑やかだったようです。

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そして終点の夕張駅に到着。駅は廃止されましたがYUBARI Crafts&Goodsは今も元気に営業中です。この駅は3代目の駅。かつてはもっと北まで線路は伸びており石炭を積み出していましたがその必要がなくなると南の方に駅を移設、路線を短縮してきました。

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夕張は映画「幸せの黄色いハンカチ」の舞台。さりげなくホームに黄色い旗が掲げられて観光客を迎えていました。

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この日は鉄道廃止まであと231日。127年もの間この地で人や石炭を運んできた鉄路の終わりのときを刻んでいました。

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鉄道をなくした夕張市ではその分バス便を充実化させたり、人口の少ない地域ではバスのデマンド化やタクシーの補助金を出したりして市民の生活の足を守っています。南清水沢地区に交通結節点や行政施設を作って人口を集めるコンパクトシティ化を進める計画です。

かつては人口11万を超え北海道有数の都市だった夕張市。今は7000人を切るまでに人口が減っています。これほどの激しい衰退はないものの、人口が減り続け消滅しかねない地域は全国に多々あります。そういった中で走っているローカル鉄道も多い状況です。鉄道をどうするのかも含めて今後地方の町村が住みやすく魅力ある街として持続していくためにどのように街づくりをしていくのか、真剣な議論が必要になってきていると思います。


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