議論における「決め打ち」の価値
議論において、「とりあえずこのテーマで考えみましょっか」みたいなことってありますよね。僕も議論する際に稀に使ったりします。これを世の中の人は「決め打ち」と呼び、決め打ちすることで制約条件がふえ、考えやすくなる、というメリットをもたらします。その代わり、制約が厳しすぎると小さすぎるソリューションになるというデメリットがあります。
今までの経験則的に、世の中には「いい決め打ち」と「よくない (=リスクのある)決め打ち」があるのかな、と思いました。すでに問いに対する仮説が複数あり、「これであればどうなるか?」と決め打つのは「いい決め打ち」。なぜなら手戻りが容易だし、論理的に破綻しづらいからです。一方、「とりあえずこれで」というのは「よくない決め打ち」なんじゃないかなと。
なぜこれを「良し悪し」で表現するかというと、多くの場合人間は、「議論の手戻りをしたくない」と考え、破綻した理屈を回復させようとしたくなくなるからです。「もうこれでいいんじゃない?」「あとは魅せ方で」と言って、考えるのを放棄する人すらいたりします。人間の性だと思うので、そうならない仕組みづくりが大事なんだなと経験的に感じています。
例えば「自社が今うつべき海外戦略は?」というテーマで「タイで一旦考える」という決め打ちをしたとします。「打つべき」と考える軸が何であるか、「人口増加」なのか「市場規模」なのか「自社の強み」なのか、どれが大事なのかを洗い出した末の「タイ」であれば、それは「良い決め打ち」になりますが、それがないのであれば「よくない決め打ち」になります。
よくない決め打ちをしてしまった場合、もともとのテーマが持つ問い「自社はそもそも海外戦略をやるべきか?-> YES」「海外戦略とは何か? -> ???」「今はどんな時代か? -> ???」という形で、問いに対する仮説が自動的に定まってしまいます。この時点で論理が破綻していることを覚えておき、のちのち補強する必要があります。
人間、方法論を考えたくなるので、ここの「YES」や「???」について考えるよりも、「タイでどんなことができそうか」を考え、タイでやる前提の情報を集めてしまう、という現象に陥ってしまいます。「これならタイじゃない方がいいね」と手戻りできれば良いですが、多くの場合は時間的制約と確証バイアスによって手戻りせずそのままになるのではないかと思うんです。
僕があまり今までの議論であまり決め打ちをしないのでわかりませんが、議論の第一歩はやはりテーマを味わい、問いを立て、お互いの考えを共有するということなのかも。実際やるならば「この課題に自分ならどういうストーリーで喋るか」をシェアしてもらい、それを抽象化して、それらがどういう仮説のもとなのかを見極めるのが大事なのかも知れません。
仮説とは「ある問いに対する、暫定的な答え」とすることが多い気がしています。そうなると仮説が立てられない原因は、「そもそも問いが曖昧」「そもそも答えが不足している」「そもそも誰も答えを決めたくない」あたりが考えられます。多くの場合は「問いが曖昧」なケースが多い印象です。
個人的には「情報が足らないから仮説が立てられない」というのは多くの場合あんまりないんじゃないかと思ってるんです。今までの経験値から、最低限「なんとなくこうじゃないか?」みたいに感じることは絶対何かあるはず。そこから仮説が導けないのであれば、導こうとしていないのか、本当の本当に知識がゼロなだけなのかも知れません。
過去数年の間にこのケースにすごく出会いました。何が厄介なのかって、気合いで乗り切ることを「挑戦」と勘違いする人が多いからです。僕たちは「戦わないためにどうするか」という戦略の話をしたいのに、「とにかく戦い抜きます」という戦術の話しかしないような人たちにたくさん出会ってきました。
「なぜ」を問われて戦えない論理は弱い、弱い論理しかない活動は苦しい、ということがもっと広まったらいいのになあなどと感じる今日この頃です。難しいですね。
読んでいただけるだけでも十二分に嬉しいです、ありがとうございます!