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文楽の行末

私は近松門左衛門作「曽根崎心中」の道行の文が大好きです。日本語の中でこれが一番好きっていうくらい好きです。

この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ數ふればあかつきの、七つの時が六つ鳴りて殘る一つが今生の、鐘のひゞきの聞きをさめ、寂滅爲樂とひゞくなり。

曽根崎心中

この文を読むと、夏の夜の重く湿った暗闇を心中に向かう二人の姿と、この世で聞く最後の鐘の音が、じんわりと心に浮かびます。

昔、母に連れられてよく歌舞伎や文楽を観に行きました。結婚後足が遠のき、子育てが一段落したらまた一緒に行きたいと思っていましたが、その頃には母が病気になり、結局行くことは叶いませんでした。

今、有楽町でミニ文楽公演をやっていると知って、久しぶりに観たくなり、急遽チケットを取りました。


これまでに数々の文楽の名作を観て、「義経千本桜」などは通し狂言でも観てとても感動しました。長い話を普段は一幕ごとの演目にしているのを、通しで観るのは観客側も体力がいる特別な公演で、今となってはそんな気力体力もないので観ておいてよかったなと思っています。

文楽公演でもらえる床本集。太夫が語る全内容が載っている。


そんな私ですが、なぜか定番中の定番である「曽根崎心中」を未だ観ていなかったのです。

明日観に行く公演は「曽根崎心中」の中でもクライマックスの、私が大好きな道行「天神森の段」なのでとても楽しみです。

文楽といえば、昨年研修生の応募がゼロというショッキングなニュースがありました。あらゆる場面で人手不足になっていくこれからの日本で、伝統芸能も持続可能かどうかシビアな選択を迫られるのかもしれません。

まず内容が、もうこれからの若い人には受け入れられないかもしれません。
昭和の不適切どころじゃないですからね。
古今東西、舞台観客の好物は悲劇ですが、江戸の戯作で花開いた悲劇文化は相当なものです。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」(葉隠)。元禄期の武道に於いても、崇高な節義の為に自害し、板挟みで自害し、また諫死というのもあって、諫めて容れられず自害し、また自害はしなくても最愛の我が子を犠牲にして殺し、身代わりにし、その殺し方も壮絶と、もう義理の為に悲惨すぎるのです。
近松はとくに義理と人情の葛藤が悲劇を生むように仕組んでいきます。心中物、殺人物、姦通物、犯罪物、狂乱物、傾城物など。

それとも案外現代の日本人気質も変わってないでしょうか?

明日、観劇の感想をまた記事にします。

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