書いては消して

 note素人どころか、ツイッタラーの上位互換みたいなわたしにもスランプが訪れた。よくわからない“コンプライアンス”を気にしてみたりもしている。例えば、“上位互換”というのだって実際には下位互換なのではないか、とかツイッタラーを見下していると思われたらどうしよう、と言ったふうにだ。実際ツイッタラーは見下しても良いような風潮があるし、あえてツイッタラーやつい廃と名乗る人は自虐の要素も取り入れているとは思う。かつてわたしもつい廃だったからそんな気がする。

 そして、自分のボキャブラリーの乏しさが気になっている。難しい言葉も知らないし、ビジネス界隈の横文字だって知らない。簡単な言葉でも素敵な文章はたくさんあるが、そんな文才もない。ただ言いたいことを言えば良いのに勝手に窮屈さを感じているのだ。

 ついこの前までは勢いで1000字以上書いて勢いで公開ボタンを押せていたのに、今では書いた文章の行き先が下書きフォルダに変更された。それが良いことか悪いことかはわからないが、自身の「書きたい」という欲求は大方満たせているのかもしれない。

 自己顕示欲や承認欲求、そして執筆欲は同時に満たすこともできるし、一つしか満たせないこともある。下書きが増えていくのはつまり、執筆欲以外は満たされていないことになる。かといって公開したからそのほかの欲求が満たされるかといえばそうでもないが、公共の場に放り投げるだけで誰かの目には触れるんだという、露出狂と同じような欲求が満たされている。

 書くことは良いことばかりだ。書いていれば自然と構成や流れを意識するし、無駄な文章によく気付く。そうすると、他人の文章を読むときに勝手に構成が見えてくるのだ。本当に言いたい部分が少しわかってくる。論文だってポエム集だって、結局は人が書いたもの。書き手がよっぽど偏屈じゃない限り、文章にはその人の気持ちが割と素直に乗っかっているのだ。

 リハビリがてらお風呂に浸かりながら書いているこの文章も、着地点を失っているが、のぼせそうなことをいい事にこの辺で書き終えようと思う。そしてどうにか公開したい。

 

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