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私的考察:ゆ虐(ゆっくり虐待)について

※この記事には暴力的かつ精神的に不快になる可能性のある内容が含まれます
※現実における虐待を肯定するものではありません
※この記事には主観的見解が多分に含まれており、また筆者がゆ虐愛好者である為バイアスがかかっている可能性があります

 皆さんは「ゆっくり虐待」をご存じでしょうか?
 一言で言えば「ゆっくり」を虐待する作品です。非常にアングラではありますが、ピクシブで「ゆっくり虐待」と検索すると14,237件がヒットするなど水面下で人気があるコンテンツでもあります。
 今回はゆっくり虐待、略してゆ虐がなぜタブーなのか?その魅力はなんなのかを自分なりに考察していきたいと思います。


ゆ虐とは?


 キャラクターとしての「ゆっくり」はみなさんご存知だと思います。
 元々の原型は『東方Project』に登場するキャラクターで、それを頭部だけのディフォルメしたものが「ゆっくり」です。解説動画などでよく使用されているのを目にしたことがあると思います。そのゆっくりを生き物として描き、それを作中で痛めつけるのが「ゆっくり虐待」略して「ゆ虐」なのです。
 ゆ虐においての「生き物としてのゆっくり」がどのようなものなのかは以下の通りとなります

・野生動物のように活動し、捕食にしたものを餡子に変換し身体を保つ
・同種と生殖行為によりその数を増やす
・それなりの知能や情動を備え、人間ともある程度の会話が可能
・自然の驚異を軽視して全滅したり、人間との力の差を理解出来ないほど頭が弱いことが多い
・身体能力は高くなく、人間を含めた他の多くの動物には為すすべもない
・その身体は通常の生物のものではなく、餡子や饅頭皮といった食品で構成されている
引用元:ニコニコ大百科『ゆっくり虐待』

 ご覧のように非常に“弱い”存在として作られているのがわかります。

なぜゆ虐はタブーなのか?


 さて、問題は「虐待」についてです。このワードに眉をひそめた読者の方も多いと思いますが、実際に「ゆっくり虐待」は比較的表現の自由度の高いネットの中でも非常にアングラなコンテンツとされ、徹底的にゾーニングされた上で楽しまれる作品です。
 ただ、虐待と言っても「ゆ虐」においては人による直接的な加害だけを指すものではありません。自然環境の中、脆弱な個体が淘汰されたり他の動物に捕食される、また害獣として人間に駆除される、ゆっくりの集団での内ゲバが原因で全滅する...などなどその定義は非常に幅広いものとなります。
 極端に言えばキャラクターのゆっくりが作中内で不幸な目に合えば、それは「ゆっくり虐待」だと言っても良いでしょう。
 「ゆっくり虐待」はさまざまな要素で構成されておりそのほとんどがセンシティブなものです。自分なりにそれを分解して以下に列挙していきます。


ヘイト創作である


原作への不満を解消するためにマイナスの感情を元に創作された二次創作作品のこと。
引用元:ピクシブ百科事典『ヘイト創作』

ゆ虐の「ゆっくり」と、一般的な「ゆっくりしていってね」でお馴染みの「ゆっくり」は別物である、というのが建前ですが、ゆ虐のゆっくりの元ネタが『東方Project』のキャラであることはどうみても明らかです。それを脆弱な生物として描き作中で不幸な目に遭わせるのですからヘイト創作と思われても仕方がない側面があります。
 しかし、上記で紹介したように生き物としてのゆっくりにも様々な設定がありそれも絶対的なものではなく各作者ごとに変化します。さらに、ゆっくりが当たり前に存在する世界の人間社会はどのようなものになるか、など世界観も練り込まれておりそれを作家間で共有することもあるなど、一種のシェアワールドとなっています。
 単なるヘイト創作にしては作り込まれているのがゆっくり虐待というコンテンツなのです。


「リョナ」の一種である


 リョナとは創作において(主に女性)キャラクターが痛めつけられる描写またはそれに性的興奮を抱く事に対するネットスラングです。
 確かにゆっくりの元ネタは『東方Project』の少女キャラであり、頭部だけのディフォルトされた姿とはいえ、その面影を残している彼女達が酷い目にあう描写は一見するとリョナに見えます。しかし、ウィキペディアではこのような指摘があります。

実際にこのシチュエーションが含まれるフィクション作品を好んで鑑賞している立場では(本人にその自覚が無い場合を含めて)加害者側でなく被害者側の女性に対して感情移入しているケースが大半を占めると言われている[3]。
出典元:「リョナ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。最終日付: 2023年2月14日 (火) 21:14(UTC)        https://ja.m.wikipedia.org/wiki/リョナ

 リョナは、酷い目に遭う女性に感情移入して興奮する事が大半だ、ということです。
 これは私の観測範囲に限りますが、ゆ虐においてゆっくりに感情移入したり性的興奮を抱いている人は(ゼロではないが)少ないと感じます。一歩引いた視点で楽しんでいる人が大多数です。
 さらにリョナにおいては“美しい存在が破壊されていく”という大前提がありますが、ゆ虐のゆっくりは(小動物的な可愛らしさはありますが)美しい存在として最初から描かれていないことがほとんどです。


キュートアグレッションの発散である


キュートアグレッション(英: cute aggression)またはプレイフルアグレッション(英: playful aggression)とは、人間の赤ちゃんや幼い動物など、かわいいものを見ることによって引き起こされる皮相的な攻撃的行動・衝動である[1][2]。

キュートアグレッション体感中の者は、可愛いと思った対象を見た際に実際に害を及ぼすことを意図することもなく、自分の歯を食いしばったり、拳を握り締めたり、かわいいと思った対象を噛んだり、つまんだり、きつく抱きしめたいという衝動を感じることがあるとされる[2][3]。
出典元:「キュートアグレッション」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。最終日付: 2022年7月22日 (金) 13:17 (UTC)        
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キュートアグレッション

 キュートアグレッションとは可愛いものを見た際にそれを攻撃したくなってしまう衝動のことです。
 ゆっくり虐待におけるゆっくりも、例外はありますが、概ね可愛らしい外見であることが大半です(作中世界の人間からどう見えているかはわかりません。あくまで神の視点を持つ我々から見て、という意味です)。
 それが不憫な目に遭う姿、もっと過激な例として握り潰される描写などはこの衝動の発散だと考えれば納得がいく気がします。
 とは言え、全体的にその描写の度が過ぎています。さらに、ゆっくりが不憫な目にあう原因がゆっくり自らの行いによる結果である、というパターンが非常に多いのです。
 表の作品で、キュートアグレッションが刺激される人気作としては「ちいかわ」が挙げられます。

 可愛らしいキャラクターが不憫な目に遭う、という点では「ゆ虐」に似ています(もちろん直接的な暴力やグロテスクな身体損壊はありませんが)。
 しかし酷い目に遭うといっても、それは作中の過酷な環境によるものであり彼等の行いが悪い、というわけではありません。
 ゆ虐の場合はそこが違います。
愚かで自分本位な個体が欲望のままに行動した結果、自業自得な結末を迎えるという話はゆ虐の中では王道パターンです。それに対し、作品の感想欄などで少なくない数の読者が拍手喝采を送ります。
 作者や読者から愛されているちいかわと比べると、ゆっくりは作者や読者からどこまでも突き放されている事が多いのが特徴です。もちろん、何の非もないゆっくりが心無い人間に理不尽に虐待される話もあります。そのようなものは“過激なちいかわ”と言っても良いと思います(「善良虐待」と言われています)。
 ただ、ゆ虐の主流は単純なキュートアグレッションとも異なる。というのが私の見解です

ゆ虐はゆっくりが酷い目に遭うことを正当化している作品が多い


 ゆ虐作品を見ていて興味深いのは虐待の正当化をしている作品が多いことです。 
 そのような作品でのゆっくりは大体が利己的であり、人間を基本的に敵視し排除しようとします。留守中の家に侵入する、農作物を勝手に食べるなど害虫として扱われています。
 つまり作中でゆっくりを駆除する事について人間に正当な理由が与えられているのです(それでも必要以上に痛めつけるのはやりすぎですが)。
 さらにゆ虐には「観察系」というものがあります。人の手が介在しない状態で、自然界に生きるゆっくりを神の視点でただ観察する、という体のストーリーです。その場合でも、ゆっくりは過酷な自然環境や野生動物の捕食などにより不幸な末路をたどるものがほとんどです。
 駆除であれ観察であれ“ゆっくりを脆弱で邪悪おまけに愚かな存在として描きそれを潰すことまたは自滅するのを正当化する”というものが根底にあるのが『ゆ虐』の特徴でしょうか。
 ここが一般的なヘイト創作、リョナ、キュートアグレッションと大きく違うところだと思います。
 かなり陰湿だと思うかもしれませんが、この要素は一般的な娯楽作品(かなり暴力的ではありますが)にも含まれているのではないか?と私は考えています。
 次にそのような要素を含んでいると私が考える作品を挙げていきたいと思います。


ゆ虐的要素を持つ一般作品


『ゴブリンスレイヤー』 ゴブリン 人と相容れない、殺さざるを得ない存在


 ゴブリンスレイヤーとは、アニメ化もされたライトノベル作品です。ジャンルとしてはハイファンタジーになりますが、他の同類作品と異なる点として、主人公が延々とゴブリンだけを狩り続ける、というものがあります。
 この作品に登場するゴブリンは作品世界において、一般的なファンタジーに登場するゴブリン同様“雑魚敵”扱いされていますが、非力な人々にとっては驚異的な存在にもなりうる、という描写がされています。
 他の冒険者がドラゴンなどの強大なモンスター討伐の為手が回らない中、ゴブリンに姉を陵辱され殺された過去をもつゴブリンスレイヤーがゴブリン狩りのプロフェッショナルとして、ひたすらゴブリンを討伐していくのです。
単体では脆弱な存在でも群体になれば人間に厄介な存在になる。そしてそれを討伐する存在も重要である、という事が作品を通して描かれています。
 人間に害がある存在であるゆっくりを駆除する、というパターンはゆ虐によく見られます。
 私個人としてはこのタイプの『ゆ虐』にでてくるゆっくりと、ゴブリンはかなり似た存在であると考えます。
 ゆっくりも動く饅頭でしかない為、直接的に人間を加害することはできないとはいえ、集団でそこらじゅうに糞便を撒き散らし、食品を食い荒らし、(これが精神的に一番きついかもしれませんが)人の言葉をつかって人間を口汚く罵倒する、という被害が詳細に描かれるのが「駆除」の特長です。
「一見非力に見えるが市井の人々からすると甚大な被害をもたらすもの」という点では『ゴブリンスレイヤー』のゴブリンと同じなのです。


『鬼滅の刃』 サイコロステーキ先輩
 自滅する愚かな存在


 鬼滅の刃は大ヒットした漫画であり、また映画『鬼滅の刃 無限列車編』はロングランヒットし世間でも話題になりました。
 大正時代の日本を舞台に人を喰う鬼と、その鬼を殺す呼吸法を身に付けた剣士集団「鬼殺隊」の戦いを描いたこの作品ですが、ゆ虐と関連性を見出したのは敵である“鬼”ではありません。
 鬼滅の刃のヒットに伴い、ネット上で『鬼滅の刃』が掲げる本来のテーマとは異なる文脈でとあるキャラクターが人気になりました。
 彼の活躍(?)を簡単に列挙すると、
・守銭奴で主人公を罵倒する
・敵の力量を見極められず無謀な攻撃をする
・その結果、賽の目状に切り刻まれる
 といったような感じで、一応主人公と同じ鬼殺隊所属であり味方サイドの人物ではありますが、同情しにくい利己的な性格とその弱さ、そしてインパクトのある死に様から人気となり、「サイコロステーキ先輩」と言うネットミームにまでなりました。
 人がサイコロ状に切り刻まれる描写をネタにするのはよくよく考えれば不謹慎です。しかし「愚かな存在が滅びる姿を笑いたい」という欲求を持っている人は少なくないようです。
「ダーウィン賞」と言うものをご存知でしょうか。愚行により子供を残せずに死んだ実在の人々に(皮肉を込めて)送られる海外発祥の賞のことです。一種のブラックユーモアでもあり不謹慎だと批判の声もありますが、1985年に始まりいまだに継続されています。
「愚か者の死を笑いたい」という欲求は全人類共通の根強いものなのでしょう。
 ゆ虐において、己自身の力を正しく認識できないゆっくりはよく登場します。そして人、野生動物又は自然環境との力量差を認識できず無謀な戦いを挑んで身を滅ぼす結末を迎えます。
 それは上で書いた「人間に害を成す存在が駆除される描写」と複合して描かれることが多く結果として、「愚か者の死」が強調されることになります。
 「愚かな存在が滅びる姿を笑いたい」という欲求を発散できる。という要素がゆ虐にはあると思います。

『北斗の拳』 モヒカン


 『北斗の拳』を知らない人は少ないのではないでしょうか。
 一子相伝の暗殺拳を身に付けた主人公ケンシロウが荒廃した世界を舞台にその拳法を使いながら渡り歩く、というストーリーです。
 そして、この作品に無くてはならない存在が通称「モヒカン」といわれるザコ敵です。
 常に自分本位で強者にへつらい弱者をいたぶるモヒカンカットが特徴的な彼らは『北斗の拳』の世紀末世界に、ある意味一番適応した存在といえます。
 自分の欲望に従って暴れ回った末に主人公であるケンシロウを舐めてかかって襲い返り討ちにあう描写は「北斗の拳」ではお馴染みの光景です。 
 彼らの死に様は人体が破裂するという非常にインパクトがあるものであり、よく考えれば非常にグロテスクかつ残酷です。時にケンシロウは、彼らをすぐに殺さずにサディスティックいたぶることさえあります。
 ですが、今までしてきた悪行があるからこそ同情の余地がなく、主人公との力量差を理解できないほど愚かな為に、先ほどの「サイコロステーキ先輩」同様、彼らの死に様は(断末魔の滑稽さも相まって)非常にコミカルなものになります。
 この「モヒカン」は確かに作中世界の一般人からすると強大な敵ではあります。が、主人公ケンシロウを始めとするメインキャラ達からすれば非常に脆弱な存在になります。滑稽な死に様を晒す為に登場するといっても過言ではありません。そして読者はそれを罪悪感なく笑いとして消費するのです。
 私はこれにもゆ虐との親和性を感じます。 

 以上の3作品を通して「ゆっくり虐待」に登場するゆっくりとはなにか?と考えた場合、私はゆっくりとはゴブリンスレイヤーのゴブリンであり鬼滅の刃のサイコロステーキ先輩であり北斗の拳のモヒカンではないかと思うのです。
 表の作品における「同情の余地のない矮小な存在が自業自得な結末を迎える描写」それを切り取り煮詰め切ったコンテンツこそが「ゆっくり虐待」ではないでしょうか。
 もちろんそれを「ゆっくり」という既存のキャラクターの二次創作で行うのですから、そこにヘイト創作の要素が入り込んでしまうのは当然ではあります。 
 しかし、仮にゆ虐が完全なオリジナルなコンテンツであっても万人に受ける事はないでしょう。

KILL THE CAT!  ハリウッドの脚本術から見る『ゆ虐』



 とにかく大問題と悪い奴が必要だ。しかも悪者が悪ければ悪いほど、主人公の行動は素晴らしく、勇気あるものに見える。だから悪い奴はできるだけ徹底的に悪くする──どんなときも!  これは鉄則だ。主人公は自らの個性や知力を駆使して、何倍も強力な敵に立ち向かい勝利するから、感動が生まれるのだ。
引用元:『SAVE THE CATの法則 』ブレイク・スナイダー著
https://a.co/b8yuQWW

 『SAVE THE CATの法則』はハリウッドの現役脚本家の著書であり、万人にうけるストーリーの作り方のノウハウが書かれています。
 この本の題名にもなっている「SAVE THE CATの法則」を簡単に説明すると、大勢から共感される主人公を作りたいのであれば「ネコ」、つまり一般的に可愛らしいとされている存在を救う場面を描きなさい、となります。
 そして上で引用しましたが敵役をとことん悪くそして強く描くのも重要です。

・殺人癖のある片足のおばあちゃん
・怒り狂ったカメの群れ
・イナゴ
 これらは“悪い奴ら”として描いていけない例としてこの本では挙げられています。非力すぎて読者がスリルを感じないのです(個人的に殺人癖のある片足のおばあちゃんはかなりホラーだとは思いますが)。
 ゆ虐において敵役として登場するゆっくりは大半が上でいう「カメの群れ」であり「イナゴ」です。
 さらに「主人公は、観客が出会ってすぐ好きになり、応援したくなるようなことをしなければいけない」とこの本では説明されます。
 これらを踏まえた上で、ゆ虐のよくあるストーリーを見てみましょう(「ゆっくり」という動く饅頭が生き物として当たり前のように生息していることを前提とした世界観です)。

 “仕事から疲れて帰ってきた主人公。すると窓ガラスを割って侵入したゆっくりの家族が家を占拠していた。食材は食い荒らされ物は散らかり糞尿が撒き散らされている。おまけにゆっくり達は家主であるはずの主人公に出ていけと言う。怒り狂った主人公は仕事で溜まったストレスも相まってゆっくりを拷問する...”  
 確かに家の主である主人公からすればたまったものではありませんが、神の視点を持つ我々観客の一般的な価値観からすると、窓ガラスを破り家を散らかし主人公を罵倒したぐらいでは「少女の顔をした非力で言葉を話せる存在」を拷問するのはやり過ぎだ、と思ってしまうのです。
 もし、主人公の拷問を正当化したいのであれば、「ゆっくり」を醜悪な見た目にしてもう少し脅威的な存在として描き、主人公の家族を殺させるぐらいはしないと駄目でしょう。
 実際に『ゴブリンスレイヤー』ではゴブリンをそのような存在として描き主人公のゴブリン狩りに正当性を持たせ、さらに拷問のような残酷な行為はせずに淡々と駆除することによって主人公のヒーロー性を高めています。
 『北斗の拳』においてもケンシロウはモヒカンをいたぶってから殺すこともありますが、モヒカンの残虐な行いをしっかり描いているため観客は安心してその死に様を楽しむ事ができるのです。
『ゆ虐』は作中でのゆっくりのした“悪事”に対して受ける代償が(我々観客から観ると)大きすぎるのが特徴です。さらに見た目がゴブリンやモヒカンと比べて可愛らしすぎる、というのも悪役として役不足感があります。
 個人的に「ゆっくり」という存在はこの本でいうところの「CAT」であると考えます。普通の作品であればこれを助け、また粗相をしてもそれを許すことにより、主人公の好感度が上がり共感を集めるのでしょう。
 それをちょっと粗相をしただけで容赦なく拷問して潰すのが「ゆ虐」です。
「SAVE THE CAT!」に中指を突き立て「KILL THE CAT!」をするのがゆ虐なのです。
 ハリウッドの万人に受ける脚本術の逆を行くのですから(ヘイト創作要素を抜きにしても)アングラなコンテンツになるのも仕方がありません。
 ただし...「SAVE THE CAT!」をする主人公はともすれば我々観客に媚を売っているとも受け取られる可能性があります。さらに主人公は観客からずっと応援される為には、様々な制約の中常に“正しい行動”をしつづけなければいけません。
 大勢の観客から支持を受ける主人公というのは共感という鎖で繋がれた奴隷でもあるのでしょう。
 最初から我々の共感を得ることを放棄して、己れの情動のままゆっくりを制裁するゆ虐世界の人間は、ある意味で自由な存在なのかもしれません。

 さらに...「人間は本能的で原始的なものに心を動かされる。主人公の動機は原始的でなければいけない」とこの本には書かれています。
 原始的な欲求にも、大っぴらに公表できるものとできないものがあります。
 生き残りたい、飢えに勝ちたい、愛するものを守りたい、美女とセックスしたい(これはポリコレの影響で最近は大分怪しくなりましたが...)などは表に出せる原始的欲求だと思います。
 上で書いた「同情の余地のない矮小な存在が自業自得な結末を迎える姿を見たい」というのは、かなりダークな原始的欲求なのではないのか?と思います。
 その欲求を満たす要素を「ゆ虐」は持っているのではないでしょうか。

男女論と『ゆ虐』

 ここまで『ゆ虐』と一般作品との共通する要素と相反する要素を書いてきました。
 ここで1番の違いを述べたいと思います。
『ゴブリンスレイヤー』のゴブリン、『鬼滅の刃』のサイコロステーキ先輩、『北斗の拳』のモヒカンは男性ですが『ゆ虐』のゆっくりというキャラクターは女性性を付与されているという事です。
 女性や少女は大切にしなくてはいけない、という価値観を我々は普遍的に持っています。これは創作においてももちろん適用されます。
 女性が酷い目に遭う描写はそれだけでセンシティブなものになります。
『ゴブリンスレイヤー』に話が戻りますが、あの作品でも女性がゴブリンにレイプされゴブリンの子を孕む描写があります。これも“女性が酷い目に遭う”とはいえるでしょう。
 しかし、作中のゴブリンに女性はいません。
人間と相容れない醜い生来邪悪な存在に女性が存在しない、というのは一般的な娯楽作品において、“女性がレイプされる描写”より遥かに重要なのではないか?と私は考えます。
 つまり『ゴブリンスレイヤー』は女性を“根本的な部分で”大切にしてるのです。
 これは『ゴブリンスレイヤー』に限ったことではなく、現代ファンタジーに多大な影響を与えたトールキンが『指輪物語』に登場する醜い種族であるオーク(ゴブリン)について、「女性もいるはず」と曖昧な表現でぼかしているくらいなので、生来邪悪な存在に女性性を付与することは昔からタブーなのではないかと私は思います。

 『ゆ虐』の一番のセンシティブな要素、それは、表の作品においては本来なら男性として描かれるはずの生来邪悪(ゴブリン)で愚か(サイコロステーキ先輩)で滑稽な死に様を晒す(モヒカン)キャラクターに女性性を付与している事ではないでしょうか?

 私個人としては、『SAVE THE CATの法則 』の「悪いやつは徹底的に悪くする」というノウハウと『ゆ虐』における「弱くて愚かな存在を作り出し不幸な目に遭わせる」というコンセプトは、創作という領域を逸脱しなければ、そこまで違いは無いのではないのか?と思います。
どちらのキャラクターも観客の原始的欲求を満たすために悪く悪く描かれて、最後は同情される事なく因果応報の報いを受け滅びていきます。
 ただ、前者は万人に受けるために、主人公のヒーロー性を際立たせるために、死んでも同情されないように、醜く暴力的で愚かでそして女性をレイプしないといけません。ゴブリンのように。モヒカンのように。必然的にそれは男性となります。
 後者はアングラであるからこそ、弱くても、可愛らしくても、女性として悪く描いても構わないのです。
 “悪いやつを作り出して作中で酷い目に遭わせる”というグロテスクな要素を元々含んでいるのが「創作」ではないでしょうか?
 表の作品においてはその“悪いやつ”に男性性を付与する事でそのグロテスクさを不可視にできました。
 裏の作品である『ゆ虐』においてはその“悪いやつ”に一般的に同情されやすい属性である女性性を付与しても問題なかった。それ故に創作が必然的に孕むグロテスクさが浮き彫りになったのではないだろうか?と私は思います。


最後に...モヒカン達への哀歌


 「ゆ虐」においてゆっくりを虐待する人物のビジュアルは、どの作品でも大方固定化されています。その姿は上で述べた『北斗の拳』に出てくるモヒカンそのままなのです。
 『北斗の拳』に登場するモヒカンたちは、メインキャラではありません。単なる雑魚敵です。しかし『北斗の拳』と言う物語を構成する重要なファクターでもあります。
 荒廃した世界では人の心も荒廃し人間の悪い部分が顕著に現れます。彼らが好き勝手に振る舞うからこそ、相対する主人公ケンシロウの気高さが際立つのです。
 傍若無人な振る舞いをした後に面白おかしく殺され、ただ主人公の引き立て役となる為だけに生み出された作品を支える縁の下の力持ち、それがモヒカンです。

 表の作品において“虐待”されてきた彼らが、アングラなジャンルである『ゆ虐』において誰からも邪魔をされることなく自由自在に暴れ回っていることに私はある種のカタルシスを感じます。

 最後までお読みいただきありがとうございます。





























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